流行する「女性」メディアは、軽やかさを超えることはできるのか?/清水晶子×鈴木みのり【年末クィア放談・前編】

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欠けているジェンダーという視点

鈴木:「i-D Japan」の「female gaze:50人のまなざし」では、「あなたにとってfemale gazeとは?」という質問にフィメール・ゲイズ号に参加した人たちのうち50人が答えています。わたしは「政治性だと思う」と答えているんですが、端的な方が良いのかなと思って、どう答えるか決めるのはけっこう難しかったです。それにしても改めて見ると、強烈というかけっこう危うい。わたしの次にコメントしている方は「ヒステリックなエネルギーの総体」と言ったりしていて。

動画を見ながらふたつのことを考えました。ひとつは、「女性的まなざし・視点」という射程の広い質問に対して「私にとって個人として大事にしてること」に置き換えて答えている人がけっこういるな、と思ったりしたこと。

清水:個性が、とかそういう。

鈴木:そうですね。もうひとつは、バイオロジカルな「女性という身体」というものを自明のものとしてのコメントですね。女性という身体、どこを、何を女性と規定する基準としているのか? っていう疑問が湧きました。子どもはすべて女性から生まれるものだから、みたいな答えもありましたよね、そういう「女性は子どもを生むものだから」っていうコメントが出てくる時に、あちゃーみたいな。

清水:女性というものをどう考えるか、パターンが2種類あるということですよね。ひとつはある種バイオロジカルな「子どもを生む」とかそういうところにいく点。もうひとつが性別にとらわれないのが女性だみたいな話。ジェンダーっていう発想があまり出てこない。なんのかんの言って「生む性」か「性別なくなる」かどっちか、みたいな感じってなんだかすごいなと思って。

さきほども話しましたが、フィメール・ゲイズっていうのは、男性主体の欲望のあり方をさすメール・ゲイズという用語をひっくり返した言葉です。メール・ゲイズに対抗して何かをするって基本的にはかなり政治的な立ち位置になる。そのことを「フィメール・ゲイズ」という言葉は表現していると思うんですよね。この言葉が適切かどうかは多分色々議論があると思うんですけど、でもその立ち位置の話をしている人はそんなに多くないというか。やっぱり日本で女性というものを考える時に許されている幅が今はかなり小さい、あんまり色んな見方っていうのが共有されてないし奨励されてないですし。この動画のコメントから、そうしたことが逆説的に出ているような気はするんですね、私。

漂白されたフェミニズム?

鈴木:「i-D Japan」のウェブサイトにはフィメール・ゲイズ号の記事がいくつか公開されています。なかでもコムアイ(水曜日のカンパネラ)へのインタビュー記事「両性具有の夢」はアクセス数も高かったり、コムアイの意見は良かったという反応も少なくなかったようです。

清水:両性具有って難しいところがやっぱりあって、両性具有にあこがれるとかは全然構わないですけど、それをどう消費するか、そこからどう展開するかっていうのはなかなか簡単ではない気がします。

フィメール・ゲイズ号についての意見のなかで、コムアイとスーザン・ソンタグを「フェミニズム」と「キャンプ」でつなげる内容の記事がオンラインにあった(山口博之「コムアイとスーザン・ソンタグは仲良くなれそう──今月の本 vol.17」)のですが、それを読んでちょっとびっくりしたんですね。キャンプという言葉を(記事中で)使ってるんですけど、セクシュアリティの話ゼロ、ゲイコミュニティの話ゼロなんですね。

ある意味で、キャンプのゲイネスを薄めてしまったところはソンタグの「キャンプについてのノート」(『反解釈』に収録)がいちばん批判されたところなわけで。むしろソンタグだったらソンタグで、誰がどういう風に(対象を)見て、「見る人」にどういう権力性があって、っていう議論は当然やっているじゃないですか。でも、そういう話を全部飛ばしてキャンプでソンタグでというところから一足飛びに男性も女性も超越してってなる。いや、それは違くない? とか思うんです。

キャンプって単に何かを超越していく話ではなくて、何かに不適切なぐらいに固着するその欲望の話だと思うんです。「キャンプについてのノート」は見るところいっぱいあるけれども、あの記事は本当にソンタグが批判されたところだけそのまま踏襲しちゃったみたいな感じで。「とにかくジェンダーにとらわれなければいいんだよね」みたいな軽さがある。(山口さんの)記事の中にはヴァージニア・ウルフも出てくるんですけど、フェミニズムでウルフを出すんだったらやっぱり『自分ひとりの部屋』だったりするわけですよ。私にはお金が必要だし場所が必要っていう、ものすごい物質的な話が出てくる古典なのに、ウルフでもそちらにはいかないんですよね。軽やかに『オーランド』にはいくけれども。私、軽やかとか嫌いなんですよ。

鈴木:表層だけ引っ張ってきてっていうことでしょうか。わたしは『反解釈』を読んでいないので、言及しにくい(笑)。

フィメール・ゲイズ号コムアイの写真の中で、おじいちゃんみたいに見えるやつがすごく好きで。これっていわゆる「きれい」という規範ではないっていう意味で、けっこう目を引いたんですよね。ただ、〈性の二元論を超えたアンドロギュノスな存在へのあこがれ〉とリードで書かれていて、性別二元論を超えるってそんな簡単なことじゃないだろとは思ってます。そういう軽やかな傾向ってファッション雑誌でもありますね。昨年12月に出た「ポパイ」の「シティガールたちよ!」という特集にも、そういう感じがありました。あとファッションの文脈で「ジェンダーレス」っていうワーディングがされていることにも、以前から違和感を感じています。

清水:両性具有とジェンダーレスって違いますよね。いつも思うんだけど日本で両性具有っていう時ってどっちの特徴も落としたみたいな感じですよね。すごい大きな胸とすごい大きなペニスがみたいなことは、まずないじゃないですか。不思議だなっていつも思ってたんですけど。

鈴木:両性具有ってじゃあ何なんだっていう。

清水:そう。何なのかがよくわかんなかったりする。別にそれはそれでいいんだけれども、でも私たちはある特定の身体で生まれてきている。その上で、その身体とどういう関係を結ぶか、どう変えるかだったり、与えられたジェンダーとどういう関係を結ぶか、どう変えるかとかをやっていくわけで。その大変さがゼロというか全く出てこない状態で、「両性具有」とかジェンダーレスとか言うのは、私にはピンと来ません。そういう感じで「クィア的」なものを消費するって90年代にありましたけれど、その頃からすごいむかつくと思ってました。そもそもキャンプって「世の中の人がみんな格好悪いと思っているこれが、私にとっては絶対に魅力的だ」とか「みんなが格好悪いと言うからこそ、私はもう何が何でもこれを愛してやる」みたいな、けっこうくどくて面倒くさい、浪花節的な愛着だと思うんですけど。

鈴木:泥くさい。

清水:そう、泥くさい。そういうのが全部なくなっちゃうっていうか。そういう形でフィメール・ゲイズ号ができていくのだとしたら非常に残念だなとは思う。

鈴木:できてたというか、そう読まれてると。

清水:そうですね、作られたと言うより、受け止められる。ウルフでソンタグでキャンプでコムアイだ、素晴らしいですねって言われても、その話の中にフィメール・ゲイズ一言もなくね? って思うじゃないですか。そういう受け取られ方は非常に残念だし、ある種のトランス的なものと女性的なものの1番不幸なつなぎ方だと思うんですよね、私は。

そういうつなぎ方をすると、トランス女性でもトランス男性でもXジェンダーでも何でもいいんですけど、トランス的な経験と、女性が女性身体で生きてるとか女性ジェンダーで生きてるとかっていう女性的な経験が、くっつかなくなってしまう。本当は密接に繋がっているのに。そうだとしたら非常に残念ですよね。フィメール・ゲイズ号は嫌いじゃなくて、いいものいっぱいあると思うのに、なぜこの取り上げ方なのか、とは思いました。

鈴木:雑誌とかファッション誌とか、ポップカルチャーのフェミニズムとかに、何か気づくきっかけとしての機能もあるのだと思いますが、清水さんが指摘するように、表層しか受け取られない、「何か新しい」とか「トレンド」のようにしか受け取られていないのだとしたら、残念ですよね。

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