流行する「女性」メディアは、軽やかさを超えることはできるのか?/清水晶子×鈴木みのり【年末クィア放談・前編】

カルチャー 2019.01.31 21:05

昨年末12月29、30日の2日間、新宿・歌舞伎町のホステスクラブでイベント「PURX」が開催されました。トーク、音楽、食、スクリーニングなどを通じて境界を越えた連帯を図るこのイベントでは、清水晶子さん(東京大学大学教員)と鈴木みのりさん(ライター)が登壇した「清水晶子と鈴木みのりの年末クィア放談」というトークが行われました。

wezzyでは本トークイベントの様子を、前後編に再構成してお届けします。前編は、男女の格差や性差別への問題意識、LGBTはじめとする性的マイノリティの権利を求める声が高まるなか、いま増えつつあるフェミニズムや「女性」を看板とするメディアについてのお話です。

増えつつある「女性」を冠にしたメディア

鈴木:2017年に刊行された「早稲田文学」の女性号や、CINRAの女性向けカルチャー媒体「She is」など、女性を冠にしたメディアや特集が増えているように思います。わたしも、2018年9月に出た「i-D Japan」のフィメール・ゲイズ(female gaze:女性のまなざし)号に、エッセイの寄稿とインタビュー記事を書きました。「i-D」は、ユースカルチャーを祝福する雑誌としてイギリス・ロンドンで生まれて、日本版は3年前からウェブを中心に記事を作りながら、紙の雑誌版を半年に一回刊行しています。フィメール・ゲイズを銘打った特集誌は本国でも出されています。〈総勢147名の女性クリエイターが参加。彼女たちとその創造性を祝福します〉とエディターズ・レターに書かれています。

清水:英語圏だと、メディアスタディーズとかを学んでメディア業界に入ってくる40代以下ぐらいの人たちは、大概どこかの時点でメール・ゲイズについて勉強しているんですよね。だから、多分イギリスの「i-D」がFemale Gaze Issueをやったときは、「ああ(ローラ・)マルヴィのあれの逆ね」って、そういう理解がなんとなく共有されている状態でできていると思うんです。

鈴木:そもそも「メール・ゲイズとは?」と事前に編集者と話さなかったなっていうのをちょっと今思い出して。

清水:メディアスタディーズってイギリスだとジェンダー論などもしっかり入っているし。それと同じ状況は多分日本のメディアまわりにはないので、難しいところがあるかなと思いますよね。フィメール・ゲイズ号には、とてもおもしろく拝読してすごくよかったという記事もいくつもありました。同時に、雑誌の難しいところだと思うんですけど、どうしてもビジュアルイメージが前に出ちゃいますよね。

鈴木:写真のインパクトが強いですね。

清水:例えば、表紙の水原希子さんが出るじゃないですか。そうすると特集として、「水原さんのイメージがフィメール・ゲイズを示していますよ」という感じに見えてしまう。メール・ゲイズは男性の「視線」なのに、フィメール・ゲイズは女性の「視線」ではなくて視線が捉える「イメージ」として表象されるわけですよね。「男性は見る(視線の主体)」なのに対して「女性はイメージ(視線の対象)」である、と。実際のところマルヴィはまさにそれこそが差別だという話をしているので、フィメール・ゲイズというコンセプトであるならば、被写体が全部女性で、しかもその「イメージとしての女性」が強く記憶に残る作りであるところにちょっと違和感があるというか、それでは結局女性はイメージで終わってしまうんじゃないかっていう。

「i-D」はビジュアルの雑誌なので、そこらへんを変えるのはそんなに簡単ではないのだろうとも思いますし、もちろん「これも美しいよね」っていう形でプレゼンされたイメージとしての女性と、女性たちのボイスが組み合わされてはいるんだけれども、「今までのメール・ゲイズ、男性の視点とは違う視線がある」「その〈視線〉を見せるんだ」という打ち出しが強烈に感じられるか? というと……そうだよねってものもあるけれども、あまりよくわからないところもあります。

鈴木:誌面にはいろんな身体や顔をした女性が出ていますよね。

清水:そうなのですが、単純に綺麗でおしゃれな写真に見えるものもけっこうあって。どうしても「伝統的な美しさ」とは違ったとしても、何らかの形ではビジュアル的にアピーリングなものを出したいわけじゃないですか。クィアの話でもよく出てくるんですが、世間一般というか社会や文化の基準とまったく違うビジュアルの基準を持ってる人ってそんなに多くはないので、多くの人が「これはちょっと普通と違ってかっこいいよね」と思う時にそれは何らかの形で「普通と全然違わない」ところに大きく依拠している。それ自体は悪いことではないし、そうでしかあり得ないところもあるとはいえ、フィメール・ゲイズ号を見ていると、全部すごいかっこいい、でもだから逆にあんまり解放感がない。

鈴木:その話は本誌にエッセイを寄稿しているイ・ランっていう韓国のシンガーソングライターとも個人的に話をしたんです。「female gaze:50人のまなざし」という、本誌に登場したりスタッフとして参加した50人のインタビュー動画があるんですが、それを見ながら「全員かっこいいよね」って。でも、こうしたメディアで声を発するのが難しい人とか、そもそも表に出れない人とかの存在について、どう考えるか? みたいなことについてもちょっと話をしました。

清水:どうでしたか? 私は読者として読んだだけなんですけど。みのりさんは実際に書いて、ちょっとまた違うパースペクティブがあるかなと思うんだけど。

鈴木:「i-D」はもともとファンジン(fanzine:ファン雑誌)という発祥で、ファンであることを大切にしていて、何かを批判するんじゃなくて、もし批判するとしても批判して出てきたクリエーションを取り上げて、祝福するっていうのが媒体のモットーだと編集者から聞いてます。ウェブ含め企画提案の際には、編集者から何度もそれを言われてるんですね。

フィメール・ゲイズ号では、「アンジュルム」というアイドルグループの和田彩花さんにインタビューをしました。典型的な女性アイドルって呼ばれてる人たちは、日本では主にヘテロセクシュアルの男性に消費される、性的な視線でまなざされる、みたいな位置づけがされてると思うんです。だから今回はそうではなくて、この人がどうしていきたいのか? とかっていうことをファンとして聞こうと。和田さんは実際そういうことを答えられる人だったんですけど、他の登場者の方々は、メール・ゲイズとは? とか共有できてなかったんじゃないかな。わたし自身も正直わかってなかったところがあります。でも、名指されて消費されたりとかあり方を規定されたりとか、そういうメール・ゲイズに対するフィメール・ゲイズっていう前提を共有していたら、批評的な感じになっちゃってたのかな、とも思います。

欠けているジェンダーという視点

鈴木:「i-D Japan」の「female gaze:50人のまなざし」では、「あなたにとってfemale gazeとは?」という質問にフィメール・ゲイズ号に参加した人たちのうち50人が答えています。わたしは「政治性だと思う」と答えているんですが、端的な方が良いのかなと思って、どう答えるか決めるのはけっこう難しかったです。それにしても改めて見ると、強烈というかけっこう危うい。わたしの次にコメントしている方は「ヒステリックなエネルギーの総体」と言ったりしていて。

動画を見ながらふたつのことを考えました。ひとつは、「女性的まなざし・視点」という射程の広い質問に対して「私にとって個人として大事にしてること」に置き換えて答えている人がけっこういるな、と思ったりしたこと。

清水:個性が、とかそういう。

鈴木:そうですね。もうひとつは、バイオロジカルな「女性という身体」というものを自明のものとしてのコメントですね。女性という身体、どこを、何を女性と規定する基準としているのか? っていう疑問が湧きました。子どもはすべて女性から生まれるものだから、みたいな答えもありましたよね、そういう「女性は子どもを生むものだから」っていうコメントが出てくる時に、あちゃーみたいな。

清水:女性というものをどう考えるか、パターンが2種類あるということですよね。ひとつはある種バイオロジカルな「子どもを生む」とかそういうところにいく点。もうひとつが性別にとらわれないのが女性だみたいな話。ジェンダーっていう発想があまり出てこない。なんのかんの言って「生む性」か「性別なくなる」かどっちか、みたいな感じってなんだかすごいなと思って。

さきほども話しましたが、フィメール・ゲイズっていうのは、男性主体の欲望のあり方をさすメール・ゲイズという用語をひっくり返した言葉です。メール・ゲイズに対抗して何かをするって基本的にはかなり政治的な立ち位置になる。そのことを「フィメール・ゲイズ」という言葉は表現していると思うんですよね。この言葉が適切かどうかは多分色々議論があると思うんですけど、でもその立ち位置の話をしている人はそんなに多くないというか。やっぱり日本で女性というものを考える時に許されている幅が今はかなり小さい、あんまり色んな見方っていうのが共有されてないし奨励されてないですし。この動画のコメントから、そうしたことが逆説的に出ているような気はするんですね、私。

漂白されたフェミニズム?

鈴木:「i-D Japan」のウェブサイトにはフィメール・ゲイズ号の記事がいくつか公開されています。なかでもコムアイ(水曜日のカンパネラ)へのインタビュー記事「両性具有の夢」はアクセス数も高かったり、コムアイの意見は良かったという反応も少なくなかったようです。

清水:両性具有って難しいところがやっぱりあって、両性具有にあこがれるとかは全然構わないですけど、それをどう消費するか、そこからどう展開するかっていうのはなかなか簡単ではない気がします。

フィメール・ゲイズ号についての意見のなかで、コムアイとスーザン・ソンタグを「フェミニズム」と「キャンプ」でつなげる内容の記事がオンラインにあった(山口博之「コムアイとスーザン・ソンタグは仲良くなれそう──今月の本 vol.17」)のですが、それを読んでちょっとびっくりしたんですね。キャンプという言葉を(記事中で)使ってるんですけど、セクシュアリティの話ゼロ、ゲイコミュニティの話ゼロなんですね。

ある意味で、キャンプのゲイネスを薄めてしまったところはソンタグの「キャンプについてのノート」(『反解釈』に収録)がいちばん批判されたところなわけで。むしろソンタグだったらソンタグで、誰がどういう風に(対象を)見て、「見る人」にどういう権力性があって、っていう議論は当然やっているじゃないですか。でも、そういう話を全部飛ばしてキャンプでソンタグでというところから一足飛びに男性も女性も超越してってなる。いや、それは違くない? とか思うんです。

キャンプって単に何かを超越していく話ではなくて、何かに不適切なぐらいに固着するその欲望の話だと思うんです。「キャンプについてのノート」は見るところいっぱいあるけれども、あの記事は本当にソンタグが批判されたところだけそのまま踏襲しちゃったみたいな感じで。「とにかくジェンダーにとらわれなければいいんだよね」みたいな軽さがある。(山口さんの)記事の中にはヴァージニア・ウルフも出てくるんですけど、フェミニズムでウルフを出すんだったらやっぱり『自分ひとりの部屋』だったりするわけですよ。私にはお金が必要だし場所が必要っていう、ものすごい物質的な話が出てくる古典なのに、ウルフでもそちらにはいかないんですよね。軽やかに『オーランド』にはいくけれども。私、軽やかとか嫌いなんですよ。

鈴木:表層だけ引っ張ってきてっていうことでしょうか。わたしは『反解釈』を読んでいないので、言及しにくい(笑)。

フィメール・ゲイズ号コムアイの写真の中で、おじいちゃんみたいに見えるやつがすごく好きで。これっていわゆる「きれい」という規範ではないっていう意味で、けっこう目を引いたんですよね。ただ、〈性の二元論を超えたアンドロギュノスな存在へのあこがれ〉とリードで書かれていて、性別二元論を超えるってそんな簡単なことじゃないだろとは思ってます。そういう軽やかな傾向ってファッション雑誌でもありますね。昨年12月に出た「ポパイ」の「シティガールたちよ!」という特集にも、そういう感じがありました。あとファッションの文脈で「ジェンダーレス」っていうワーディングがされていることにも、以前から違和感を感じています。

清水:両性具有とジェンダーレスって違いますよね。いつも思うんだけど日本で両性具有っていう時ってどっちの特徴も落としたみたいな感じですよね。すごい大きな胸とすごい大きなペニスがみたいなことは、まずないじゃないですか。不思議だなっていつも思ってたんですけど。

鈴木:両性具有ってじゃあ何なんだっていう。

清水:そう。何なのかがよくわかんなかったりする。別にそれはそれでいいんだけれども、でも私たちはある特定の身体で生まれてきている。その上で、その身体とどういう関係を結ぶか、どう変えるかだったり、与えられたジェンダーとどういう関係を結ぶか、どう変えるかとかをやっていくわけで。その大変さがゼロというか全く出てこない状態で、「両性具有」とかジェンダーレスとか言うのは、私にはピンと来ません。そういう感じで「クィア的」なものを消費するって90年代にありましたけれど、その頃からすごいむかつくと思ってました。そもそもキャンプって「世の中の人がみんな格好悪いと思っているこれが、私にとっては絶対に魅力的だ」とか「みんなが格好悪いと言うからこそ、私はもう何が何でもこれを愛してやる」みたいな、けっこうくどくて面倒くさい、浪花節的な愛着だと思うんですけど。

鈴木:泥くさい。

清水:そう、泥くさい。そういうのが全部なくなっちゃうっていうか。そういう形でフィメール・ゲイズ号ができていくのだとしたら非常に残念だなとは思う。

鈴木:できてたというか、そう読まれてると。

清水:そうですね、作られたと言うより、受け止められる。ウルフでソンタグでキャンプでコムアイだ、素晴らしいですねって言われても、その話の中にフィメール・ゲイズ一言もなくね? って思うじゃないですか。そういう受け取られ方は非常に残念だし、ある種のトランス的なものと女性的なものの1番不幸なつなぎ方だと思うんですよね、私は。

そういうつなぎ方をすると、トランス女性でもトランス男性でもXジェンダーでも何でもいいんですけど、トランス的な経験と、女性が女性身体で生きてるとか女性ジェンダーで生きてるとかっていう女性的な経験が、くっつかなくなってしまう。本当は密接に繋がっているのに。そうだとしたら非常に残念ですよね。フィメール・ゲイズ号は嫌いじゃなくて、いいものいっぱいあると思うのに、なぜこの取り上げ方なのか、とは思いました。

鈴木:雑誌とかファッション誌とか、ポップカルチャーのフェミニズムとかに、何か気づくきっかけとしての機能もあるのだと思いますが、清水さんが指摘するように、表層しか受け取られない、「何か新しい」とか「トレンド」のようにしか受け取られていないのだとしたら、残念ですよね。

「イメージ」を撮る側の言葉を読みたかった

鈴木:では、具体的にどうすればもっとフィメール・ゲイズ号は良くなったと思います? わたしは写真についてあんまり詳しくないんですけど、昨年「アサヒカメラ」でも「女性写真家がすごい!」っていう特集があって、関連して編集長のインタビューがハフポストに掲載されました。けど、メール・ゲイズとは何だったんだ? とか、ガーリーフォトブームを作った反省とかはなかった。ガーリーフォトって男性たちが名付けたものですよね。その文脈の中だけど、長島有里枝さんとか、女性の写真家が出てきたっていう側面もあるけれども。

清水:女性の写真家が出てきて、そういう名前がつけられた。

鈴木:そうでした。出てきて、名づけられた。その中で、彼女は今そこと違うところにいってる。そういう意味では、世に出るきっかけとしては評価できなくもないけれども、じゃあ……っていう話で。

フィメール・ゲイズ号の松田青子さんの小説「男の子になりたかった女の子になりたかった女の子」には、自分の視点が男性を中心とする視点で作られた文化構造の中で培われて、さらにそこに疑問を抱く、という葛藤やねじれがある。すごい身も蓋もない言い方になっちゃうんですけど、肯定的でもあるけど否定もちゃんと入ってる。清水さんも良かったって言ってましたよね。ただ、写真中心の「i-D」で、そういうジレンマを見せられるか? というと……。

清水:フィメール・ゲイズを追求している人たち、イメージを作った人たちから、「この特集での私のフィメール・ゲイズとは何だったのか」を聞きたかったです。撮られた側がインタビューを受けて話をしていて撮った側が消えている状況だと、個人的には「フィメール・ゲイズ号は何を見たかったの?」と思うんですね。だから水原さんじゃなくて(i-Dで水原さんを撮った)長島さんのインタビューが見たかったと思うっていうか。

それは写真がすべてを言うのだから写真を見ろって言い方もできるとは思うんですけど、だったらもう水原さんのインタビューもなしで写真だけでいい。

鈴木:「i-D Japan」のウェブでは、長島さんのロングインタビューが2017年末にありました。撮る側の視点と言えば、「50人のまなざし」で、若い、20歳ぐらいの写真家の石田真澄さんのコメントが、清水さんが言っている点にふれていると思います。「私にとっての女性的視点は、個人の個性よりも性別について考えざるを得ないことだと思います」と言っている。

清水:そうですね、あれを聞くとああわかるなって思うじゃないですか。そういう話が実際に記事になってたらいいな、それをもっと聞きたいなって思う。見られることを意識しながら見る、みたいなことを言っていた人もいましたよね。

鈴木:映画監督の山戸結希さんですね。彼女も見る側の人間ですよね。

清水:もしかすると、実際に写真とか映像とか撮る方はしゃべるんじゃなくて撮ったものを見てくれっておっしゃる可能性も高いのだろうとは思います。それはそれでもちろん尊重されるべきだと思うので、そこらへんが雑誌を作る側としてはきっと大変なんだろうなという想像はできます。ただ読者の勝手な期待としては「私はどう見てるよ」っていうのを知りたかった。先ほど鈴木さんが言及なさった松田青子さんの小説がおもしろかったのは「同一化について」だったのもあると思うんです。ある女の子が、どういう子たちを見ながら、どういうような女の子をいいなと思いながら育っていったか。男の子になりたいわけじゃないんだけれども男の子になりたいと思うような女の子がかっこいいなと思いながら、そう言う女の子たちをみながら、女の子として育っていく、みたいな。

鈴木:ウィノナ・ライダーとか、具体的なフックもありました。

清水:小説は文字ですけど、はっきりと「どういう風に何を見てきたか」という話だったと思うんですよね。ああいうのはいかにもフィメール・ゲイズ号という感じがします。あと、石内(都)さんのインタビューも良かった。

批判を可能にする「立場」

鈴木:こういう表象があることが決して悪いとも言い切れないって時に、上手くそこで言葉を紡げない、自己批判的な感じが残ります。批判をするのってすごい難しい。わたしの場合、仕事とつながったりしてるから、批判を述べることによって、干される可能性を想定して怖気づく。そういうのどうしたらいいのかな、でもやったほうがいいよな、とは思って今言ったりしてるんだけど。

清水:そういう不安はありますよね。

鈴木:独立して批判できる立場ってどこにあるんですかね。

清水:私は言っちゃってますけど、割と。ただ、SNSとかもやるので難しいなと思うのは、例えば大学でのセクシュアルハラスメントとかに関してネットで盛り上がった時に、この段階では大学としては多分何も言えないだろう、っていうのが大学の中にいる人間としてはわかる、と言うこともある。システムがわかるだけに、加害者を守るためじゃなくて被害者の秘密保持だったりとか権利保障のために、多分今動けないだろうな、ってわかることが過去に何回かあって。少し違う話ですけれども、最近だと、それこそ姫野カオルコさんの……。

鈴木:小説。『彼女は頭が悪いから』。

清水:私は他の仕事と重なって参加できなかったんですが、あの小説をめぐる東京大学でのイベントが大変だったらしいんですよね。それで後からその報告をネットでいくつも目にして、イベント参加者や報告を読んだ人たちが何に怒ってるのかは非常によくわかる。私も同じものに怒らないわけでもないんですが、ちょっと学内の状態を知ってると違うものが見えることもあるんです。「たぶんそういう話じゃないと思う」みたいなことがある。でもそれを今言うならどう言おうか、言っても意味がないか、とかは考えちゃいます。それ以外では批判しにくいことはあんまりないかな。それに何より、専任があるから。

鈴木:専任?

清水:常勤職だから私はそこはとても気が楽。大学は生首そんなに切れないので、そこのお仕事がある限りはとりあえず来月の収入が消えるかもしれないみたいな不安に常に脅かされる必要はない。職業的な特権です。

鈴木:それは確かにフリーランスとはちょっと違うということですよね。

清水:全然違うと思いますね、それは。

鈴木:フェミニズムって、標榜しているみんなじゃないかもしれないですけど、基本的にみんな批判しあって、別にそんなに馴れ合わないで議論を積み上げてきてるじゃないですか。

清水:馴れ合わないかどうかまでは微妙だと思いますけど、理念としてはそうですよね。
(構成/鈴木みのり)

※後編「建前と本音を使い分けるーー「LGBT運動」の可能性/清水晶子×鈴木みのり【年末クィア放談・後編】」に続く

鈴木みのり

2019.1.31 21:05

1982年生まれ。ジェンダーやセクシュアリティの視点、フェミニズム、クィア理論への関心から小説、映画、芸術などについて「i-D Japan」「キネマ旬報」「現代思想」「新潮」「文藝」「ユリイカ」などで執筆。第22回AAF戯曲賞で審査員を担当(愛知県芸術劇場・主催、2022年度)。近刊に『「テレビは見ない」というけれど』 (共著/青弓社)、和田彩花と特集の編集を担当したフェミニズムマガジン『エトセトラ Vol.8(特集「アイドル、労働、リップ」)』。『早稲田文学 増刊「家族」』 (筑摩書房)や『すばる』2023年8月号で短編小説を発表。

twitter:@chang_minori

関連記事

INFORMATION
HOT WORD
RANKING

人気記事ランキングをもっと見る