2011年、柔道の五輪金メダリスト・内柴正人が、女子柔道部員への性的暴行で逮捕された事件の際も、デヴィ夫人は加害者側に同情的だった。ブログに、<彼の家族、妻、幼い二人の男の子の人権はどうなるのでしょう>等と綴り、被害を訴えた女子柔道部員を「わきあいあいと楽しんでいたに違いない」とまで断罪。また、昨年元TOKIO山口達也が、番組で共演した未成年女性タレントを自宅に呼び、性的暴行をしようとし逮捕されたが、この事件についてもデヴィ夫人は「のこのこ家に行った女も悪い」というスタンスを崩さなかった。
山口達也の事件では被害女性は強引にキスをされたというが、デヴィ夫人は<たかがキスぐらいで騒ぎすぎ>とし、廃業に追い込まれる状況となった山口を<気の毒すぎ>と擁護している。デヴィ夫人にとって性行為は、たいしたことではないのかもしれない。性暴力はうまくかわすか、あとで示談交渉をして儲けにするのが“賢い世渡り”なのだろう。性暴力と性交渉の違いもさほどないという認識の可能性がある。
ではデヴィ夫人は、性的なアプローチを伴わない理不尽な暴力に晒されても恐怖や屈辱を感じることはないのだろうか。どれだけ侮辱され、恐怖や屈辱を覚えても、金銭的な謝罪を受ければ納得できるのか。
節分会にて、デヴィ夫人は自身が代表を務める芸能事務所「オフィス・デヴィ・スカルノ」の運営費を着服した元経理担当者との裁判に触れ、「現在の日本の法律はここまでと言われるのはつらい。勝つのはわかっているけど、もっと刑を重くしてあげたい」と語ったそうである。その処罰感情と同じものを、なぜ性犯罪に関しては持てないのか不思議でならない。
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