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「女性専用スペースからトランス女性を排除しなければならない」という主張に、フェミニストやトランスはどう抵抗してきたか

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トランスジェンダー運動/理論の誕生

 1990年代初頭、英米圏のトランスジェンダー運動/理論は誕生した。トランスジェンダー運動/理論にとって、上で紹介した出来事に対抗することが、一つの重要な仕事となった。その起爆剤となった論文を書いたのが、まさにレイモンドのターゲットとなったサンディ・ストーンだ。この論文は「”帝国”の逆襲――ポスト・トランスセクシュアル宣言」というのだが、「”帝国”の逆襲」というタイトルはレイモンドの『トランスセクシュアル帝国』の意趣返しである(ちなみにこの論文は、パトリック・カリフィアほか『セックス・チェンジズ』(作品社、2005年)に収められていて、日本語で読むことができる)。

 レイモンドの、そして今日のトランスフォビックなフェミニストの世界観では、男性とは生物学的な男性身体を持つ者のことであり、女性とは生物学的な女性身体を持つ者のことだ。そしてそのようなフェミニストは、自分たちが正しいと信じる基準に基づいて、トランスをジャッジする裁判官を自認している。ストーンは、トランスがフェミニズムや医学からジャッジされる側から、自分自身を自ら語る側になろう、と呼びかける。そして自ら語りはじめることで、「女性を分断する」と非難されてきたトランスは、むしろそのようなフェミニズムの硬直したジェンダー二元論を解体し、再構成する力を活性化させる。それによって、本質主義的な女性や男性の定義の下では存在を認められなかったような、新しいトランスの生の可能性を切り開いていくのだと、ストーンは主張した。

 ミシガン女性音楽祭におけるトランス女性の排除への抗議もまた、90年代のトランスジェンダー運動における重要な出来事となった。91年にブルクホルダーが追い出されると、翌年には、トランス女性の排除に抗議する人々の一団があらわれた。94年には会場の外で「キャンプ・トランス」という抗議集会が組織されるようになる。「キャンプ・トランス」には、リキ・ウィルチンズ、レスリー・ファインバーグといった当時を代表するトランスアクティヴィストが参加し、トランス排除に反対するフェミニストたちも、これに加勢した。横断幕にはこう書かれた。「人間に生まれた人間のために」。

 同じく90年代初頭に誕生したクィア理論も、トランスジェンダー運動/理論に大きな影響を与えた。クィア理論は、トランスフォビアの原因ともなっているようなそれまでのフェミニズムの前提を洗いなおした。トランスの文脈に引きつけながら、三つに分けて紹介しよう。

 第一に、フェミニズムが依って立つことができるような、女性が被る「共通の抑圧」の経験が存在し、フェミニズムを担う「女性」とはその「共通の抑圧」を経験している人のことだ、という想定を批判したこと(※2)。トランス女性はシス女性とは、人により程度の差はあれ、異なった個人の歴史を持つ。「共通の抑圧」の想定の下では、トランス女性はフェミニズムを担う「女性」には入らなくなってしまう。

(※2 このような「共通の抑圧」の想定を批判したのはクィア理論が最初ではない。ブラック・フェミニズムやポストコロニアル・フェミニズムは、80年代にはすでに、それぞれの関心において同様の批判を提起していた)

 第二に、ジェンダーが社会的なものであっても、身体の生物学的な性(セックス)は社会的な意味づけ以前の単純な解剖学的事実である、という想定を批判した。そのような想定は、トランス女性は手術をしようが何をしようが、男性身体の持ち主であり、「男は男だ」という見解を招き入れる。しかし、「生物学的な性」という概念自体が社会的に作られたものであり、性の生物学的な側面とされているものが人間にとって何を意味しているのかは、つねに言語的な秩序の中で、認識され、理解される。だからこそ、トランスの身体変容もまたこの社会的世界において、有意味な実践として成立するのだ。

 第三に、トランス女性が女性性や女性としての身体を獲得することは、「本物の女性」の女性性や女性身体を「我がもの」とする女性蔑視の実践だという想定への批判だ。しかし、ジェンダーの本質主義を真に批判するなら、ジェンダーに本物も偽物もないと言わなければならないのではないか?(※3)

(※3 このことは、ジェンダーとは人工物であり、ゆえにすべて偽物である、という主張と同じではない。そのような主張は、それゆえ単純にジェンダーは廃絶できるし、すべきである、という主張を経由して、トランスがトランスすることそのものの否定へと滑っていく。しかもその否定が、ジェンダーに対する批判的な態度だと標榜されていく)

 このような批判は、フェミニズムが依拠する「女性」のカテゴリーを排他的なものとしてしまうような、ジェンダーの二元論を批判するものだ。クィア理論や、クィア理論に影響を受けたトランスジェンダー運動/理論は、異性愛/同性愛、男性/女性といった二元論を根底から批判し、トランス的な身体や実践を、二元論を越境し、規範を撹乱するものとして、高く評価した。そのような主張は、普通の女性や男性として社会に同化して生きるという、伝統的なトランスのあり方とは異なったジェンダーの可能性を切り開くとともに、性別移行を統制する医学や精神医学の制度への抵抗を企図したものであった。

 だが、同時に、そのようなクィアな攪乱の主張は意図せずしてレイモンド的な見解に近づいてしまうことがあることに、注意しなければならない。女性や男性への同化を拒否することや、手術やホルモンのような治療を拒否すること「こそ」が政治的に望ましい生き方であると考え、そのような政治的姿勢に同調しないトランスを医学や社会の操り人形のように考えるなら、結局、男性や女性としての平穏で安全な日常や、自分が安心して生きることのできる身体やジェンダーを望むトランスの人々の生を、否定することになる。

 こうした認識の下、特に身体違和の経験や、身体を変えることを重視するトランスの人々は、トランスの実践の政治的価値をジェンダーの越境や攪乱という観点からのみ捉えるようなクィアなトランスジェンダーの言説に対して異議申し立てをしてきた。この異議申し立てが正当であるのは、一つにはこのようなトランスジェンダー/クィアの政治が、レイモンドやその他のトランスフォビックなフェミニストが述べ立てているような、男性性や女性性を身体化するトランスの実践は暴力的なジェンダー規範を強化するので間違っている、という主張と響きあってしまうからだ。

 そのような「規範の強化」を全面的に非難する主張は、人間をジェンダーの規範や制度の全くの犠牲者とみなす。そこではジェンダーの廃絶が唯一取りうる選択肢となる。しかし私たちは、一面で規範を引き受けながら、同時に規範に逆らい、それによって、わたしの生存が可能となるような条件を積極的に模索することができる。二元論への挑戦や規範の攪乱もまた、それ自体として重要だというより、それを通じてこれまで存在を認められず、生存不可能となっていたようなトランスの生を擁護しうる現実を切り開こうとするという点で、重要なものである。トランスジェンダー理論にとって最も重要な目標は、あらゆるトランスの生を擁護しうる諸条件を作り出し、実現することだと、私は考える。

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