トランスフェミニズム
ここまで私は、フェミニズムの歴史的なトランスフォビアについて、トランスジェンダー運動/理論がそれにどのように対抗してきたかについて、描いてきた。それでは、フェミニズムとトランスの間に存在してきた緊張関係は、フェミニズムとトランスの運動、女性の権利とトランスの権利が両立しないことを意味するのだろうか? 決してそうではない。
トランスジェンダー運動/理論とクィア理論はともに、フェミニズムへの批判の中からうまれた。だがそれは、新しい運動や理論が古いフェミニズムを捨て去るということでは全くない。フェミニズム、クィアそしてトランスは、現在進行形で、時に重なり合い、時に衝突しながらも、それぞれ独自の問題系を追究してきた。そのような生産的な緊張関係は、トランスの生を肯定するフェミニズムの流れをも生み出してきた。その一つを「トランスフェミニズム」と呼ぶ。
男性/女性というジェンダーのヒエラルキーを本質化し、絶対視するようなフェミニズムの問題点は、女性や男性といったカテゴリーをそれぞれ貫く他のあらゆる種類の社会的なヒエラルキーについて、適切に考えられないことだ。人種、階級、民族、セクシュアリティや健常性などをめぐる力学が、ジェンダーの権力関係においていかに機能しているかについて考えることは、今日のフェミニズムが女性の抑圧を問題化するうえで、きわめて重要なものとみなされている。
そして、トランスフェミニズムは、男性/女性というジェンダーのヒエラルキーにおいて、シス/トランスというもう一つのヒエラルキーが、いかに交錯して、トランスに対する差別や偏見を生み出しているかについて考えるよう、私たちに求める。例えば、女性性をジャッジすることには反対するはずのフェミニストが、なぜトランス女性の女性性をジャッジするのか。トランスフェミニズムの考え方によれば、そのようなフェミニストが、セクシズムには反対しながら、シスセクシズムという、セクシズムと関連するもう一つの差別的な思考へと陥ってしまっているからだ。シスセクシズムとは、ジュリア・セラノによれば、「トランスの人々の性自認や性表現を、シスの人々のそれよりも正当でないものとみなすセクシズム」である(※4)。
(※4 Julia Serano, Excluded: Making Feminist and Queer Movements More Inclusive (Seal Press, 2013), Kindle ed., No. 703.)
このようにシス/トランスのヒエラルキーについて考えることは、両者の差異を絶対化したり、「シス女性のフェミニズム」に対してトランスフェミニズムを対置したりすることとは全く異なる。こうした様々な力学の交錯について考えることは、フェミニズムがあらゆる女性に対する差別や暴力について正しく理解し、対抗するために、そしてあらゆる差別や暴力に対して抵抗していくために、必要なことなのだ。
キャンプ・トランスの映像資料
最後に、記事中で紹介した「キャンプ・トランス」のドキュメンタリー映像を紹介したい。この映像は、リーン・アーンスト監督の作品”We’ve Been Around”の一部である。
この映像で、レスリー・ファインバーグは女性たちの前で次のように発言している。「トランス女性が女性の空間に迎え入れられたいと思うのは、あらゆる女性たちと全く同じ理由のためだ。安全だと感じるためだ。」
この動画は、Normal Screen(@NormalScreen)さんのツイートで紹介されていたものである。
※本記事は「TRANS INCLUSIVE FEMINISM」でもお読みいただけます。