社会

建前と本音を使い分けるーー「LGBT運動」の可能性/清水晶子×鈴木みのり【年末クィア放談・後編】

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昨年末12月29・30日の2日間、新宿・歌舞伎町のホステスクラブで開催されたイベント「PURX」で、清水晶子さん(東京大学大学教員)と鈴木みのりさん(ライター)のトークが行われました。

「女性」を看板とするメディアを話題の中心とした前編に続き、後編は、清水さんが専門とするクィア理論の話から始まります。来場していた、運動の現場にも関わる谷山廣さんもトークに加わり、東京レインボープライドを始めとする日本のLGBT権利運動を巡って、批判や対話の場づくりへと話が及んでいきました。

流行する「女性」メディアは、軽やかさを超えることはできるのか?/清水晶子×鈴木みのり【年末クィア放談・前編】

昨年末12月29、30日の2日間、新宿・歌舞伎町のホステスクラブでイベント「PURX」が開催されました。トーク、音楽、食、スクリーニングなどを通じて境界…

ウェジー 2019.01.31

クィア理論は「これが正解」とは設定しない

鈴木:ここまで「女性」を看板にするメディアへの批判と良い点について話してきました。フェミニズムは批判を積み上げてきて、前に進んできたという流れでしたが、わたしは、フェイストゥフェイスの時に感情に左右されやすいっていう点もちょっとあります。それおかしいよねって批判したいと思っても、それを緩めちゃうとか。

清水:わたしも、わりとオンラインコミュニケーションのほうがしやすい人間なので、フェイストゥフェイスはあまり得意ではないんですよね。余計なことにいっぱい気を取られてしまうので。

鈴木:わたしは大学を中退していて、学士も取っていません。今ここで清水さんと言葉を交わし合うことはできてるけど、清水さんの発言に対して「すいません」「間違えました」「もう黙ります」みたいな風になっちゃう危うさもありますよね。

清水:文字コミュニケーションのほうがそういう心配が少ない気がします。声のトーンだったりとか身振りだったりとか顔つきだったりとかそれも全部含めてのコミュニケーションであり、そういうところをわりと得意にする人もいますよね。でも、わたしはどちらかというとそこが苦手なので、できることなら実際に文字になっている内容だけをベースに話をしたい、と思っちゃって。書いた人の肩書きとかもできることならないことにして。もちろん実際にはそう簡単ではないのですが。

鈴木:学問を権威と見て、本当はそうならなくてもいいはずなのに、萎縮したりしがちですよね。

一方で、わたしもですが多くの人は、感情が先行しがちですよね。何か問題が起きたとき、自分の感情だったり他の人の声や意見が入ってくることによって、色んなところに思考が枝分かれして、問題の核が見えなくなることがよくあるじゃないですか。そういうときに、学問によって誰かが交通整理しようと思えばできる。けど、それによって埋もれてくものもあるようにも思う。

クィアって、そもそも侮蔑的な言葉をあえて引き受けるみたいな動きだったと思うんですよね。でも、クィアスタディーズって言うときに、そこに生まれる学問としての権威について、わたしはどう考えたらいいのかなってすごい悩んでて。

清水:一般的に、あるものをちゃんと整理して分類して、あるいは問いに答えて……っていうのが学問だと思われやすいんですけど、「問いを立てる」という学問もある。クィアスタディーズというよりクィア理論というべきかもしれませんが、それはそういう面を持っています。

わたしたちが、社会や文化、自分のことを考える時に、例えば「ジェンダーって今までわたしたちが考えてきた通りのものなのだろうか、違うとしたらどういうものと考えれば良いのか」みたいに、問いと仮説を立てていく。権威を持って「これが正解なのでよろしく」と設定するタイプの学問ではないんですよね、本当のところ。

鈴木:クィアを「どうとでも言える」っていう風に理解しちゃう人も出てくる気がします。それが良いこととは思えないんだけど。

清水:「どうとでも言える」と「どう言っても同じ」は必ずしも同じではなくて、「どうとでも言える」ことをどう説得力を持って言えるか? 何のために言うか? は問題になります。わたしはそういうところが気になります。

例えば「ジェンダー」についても、さまざまな説明の仕方やや考え方があります。その中には、はちゃめちゃで望ましくない考え方や、今の状況を悪くするような説明の仕方もある。でもそれをあえて言うとしたら、そのための正当化が必要だとわたしは思うんです。どうとでも言っていいからこそ、言ったことがどういうことになるのかは考えなくちゃいけないんです。

鈴木:影響とか。

清水:そうですね。これも学問領域によるかもしれませんけど、「何であるかを明らかにする」というよりは、「それが何をするか/しているのかを明らかにする」点で、人文系のカルチュラルスタディーズとか、文学理論や映画理論などは、一部のライターさんの仕事とも近いかなと思います。ある特定の場所、ある特定の時代、ある特定の文脈の中で、ひとつの表現なり主張なりが何をしているのか、どのような機能や作用を果たしているのか、という問題を考えることは法制度とか、社会や自身をどう捉えるかとか、何をきれいだと思うかとか、そういうことと関係してくる。だから、どう言うか、どう言えるかは、実はけっこう限定されてくる感じです。

「ハッピープライド!」ってなに?

鈴木:東京レインボープライド(以下、TRP)の話題に移ります。わたしはここ数年TRPのメインフェスティバルを見ていて、パレードで批判を許さない印象を受けてるんですね。

2018年のパレードで歩いたとき、沿道から「ハッピープライド!」って笑顔ですごい言われたんです。ハッピーの押し付けみたいなものとも通じるような違和感をTRPに持っています。プライドを標榜するパレードって、もともと1969年のストーンウォールでの反乱があって、性的マイノリティの、生きてく上での最低限の権利、人権を求めて……って成り立ちがありますよね。つまり既存のシスジェンダー・ヘテロセクシュアルありきの社会への批判の意識があったのだと理解しています。そういう運動の文脈が幸福だとか、感情的な話にすり替わっているのを感じています。

清水:感情は大事なんだけど、それ? っていうのはありますよね。

鈴木:別に仲良くできなくてもいいから、基本的な人権をお願いしますみたいな。お願いしますって頼むのも変なんですけど。

清水:ハッピープライドは何なんですかね。圧倒的に多いけど。

鈴木:そういうのを浴びると疲労感があります。

清水:答えないとこっちが悪いみたいな。

鈴木:水を差す人たちみたいな風になるっていうか。

清水:そうそう。あれはわたし好きじゃない。やりたい人は別にやってくださればいいけど。

鈴木:昨年「新潮45」(新潮社、後に休刊)8月号に掲載された杉田水脈議員の「LGBT支援の度が過ぎる」に対するデモが8月5日に渋谷駅のハチ公前で行われました。平野太一さんという方が個人で呼びかけたそうで、その周りで動いた方と友人のつながりで声をかけられ、わたしもスピーチをしたんです。PURXを始めたひとりのカナイフユキさん(イラストレーター)らも登壇しましたよね。

先行して7月27日に自民党本部前で行われたデモで聞いた、「これがプライド」というシュプレヒコールにちょっと乗れなかったんですね。なのでわたしは、そもそもプライドを得るってどういうことなんだろう? みたいな内容をスピーチしました。わたしは半年間、歌舞伎町にあるニューハーフショーパブで働いた経験があって、その時にけっこうボロ雑巾みたいな感じになっていたんです。最低時給が900円で、(シスジェンダー・ヘテロセクシュアルの男性経営者に)搾取されていて、お酒をすごい飲まないと本当に稼げないみたいなところで。でも働いている人たちは、(いわゆる一般社会に)行く場所がないからそういうところに行くって側面も見逃せないんですよね。

(前編で話した「i-D Japan」フィメール・ゲイズ号などで)表象されているかっこいい女性たちもそうなんですけど、トランスジェンダー女性でも、佐藤かよさんとか、個人としてはもちろん彼女は悪くないんだけど、ああいう美しい人がメディアに出て表象されている一方で、そういうレベルにいけない人がけっこういる。そういう人たちが女性装をしたい・女性的な振る舞いをしたいとか、そういうのが許される、そういう状態でいられる場所として「ニューハーフ」としてショーパブで働いたりしてる人がいて。水商売が好きです、ずっとやりたいですっていう人もいるんだけど、別に主体的に選んでいるわけじゃない、お酒にも強くないのに働いてる人も少なくなかった。

谷山:すみません、ちょっといいですか? LGBT・若者等の支援に携わっている谷山(※1)といいます。LGBTって最初は、マイノリティの中のマイノリティの人も可視化しようと思ってB(バイセクシュアル)とかT(トランスジェンダー)とかをつけて運動していこう、という趣旨だったと思うんですね、多分。それがここ数年の商業化とかなのかな、外部からの「マイノリティも活躍しなさいよ」的なところで、マイノリティ性という部分がそぎ落され、「LGBT」っていう記号として使われるようになった。その結果、ハッピープライドみたいな流れになってきたのかなって思います。

(※1 谷山廣:LGBT・若者相談支援者。1990年代から、「 府中青年の家」裁判を傍聴・応援したりと、 長年クィアアクテビズムに身を置いてきた当事者)

無邪気にハッピープライドって言っちゃう人っていうのはけっこう外部からの人(非当事者)が多いような印象を持っています。本当にどこに困難があるかがわからないまま、アライ(Ally:支援者)認定をしている企業の人とかが言ってらして、それが大きくなってる。それが必ずしも悪いとは思いませんが、LGBTブームみたいな空気の中、パレードの場で高揚して、祝祭ムードで「ゲイです」「レズビアンです」「トランスです」「自分らしく生きられるよ」って言えたとしても、社会に出たとたんに抑圧を受けることもままある。長年見てきた身としては、若い人たちで、その被害を受け止められないような層っていうのが少なからずいるっていうのは、すごい心配だなって危惧しています。

鈴木:そうですね。それでわたしは、さっき挙げたような、そもそも生きてくことに精一杯なトランス女性たちに「プライド」っていう言葉が届いてるのか? みたいな気持ちになったのと、杉田氏が言及していた「生産性」っていう言葉ともちょっとつなげて、スピーチを作ったんですね。

杉田氏の寄稿には「別にあなたのジェンダーやセクシュアリティがどうであってもちゃんと働ければいいよ」という趣旨のことが書かれていたんだけど、それってつまり一般的な社会における就労の現場で有益な存在としている、それが生存の条件とされている、とわたしには読めた。でも働くと言っても、例えばトイレだとか更衣室だとか、シスジェンダーの「男/女」を基準に分けられている公共の場所が前提だったりする。そういう既存の枠組みのなかで、どうそのコミュニティで生活したり就労したり就学したりできるのか? そこに入っていけるのか? っていうことが考えられる前に、働ければ別にいいよって言われちゃう。そこは結局(すでにシスとトランスのあいだでの平等ありきで)自己努力になったりだとか、パスできる(シス男女に同化できている)人だったら何も言われないっていう、条件がフェアじゃないっていうこととかを感じてたので。そういう意図のスピーチだったんですよね。

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