(2)そもそも「専門家」なのか
世に出回るマナー記事の書き手は、匿名で誰だかわからない場合もあるが、マナー講師を名乗る人の場合も少なくない。実際、マナー研修を職業にしている人たちはたくさんいて、そういう人たちは「専門家」を自称しているようだが、そうした人たちはどの程度「専門家」なのだろうか。
明治頃の新聞記事でマナー(作法と呼ぶことのほうが多かっただろう)に関する記事を見てみると、語り手の多くは小笠原流礼法の師範のような人とか旧華族出身の人とか、それなりのバックグラウンドと訓練経験のある人たちだった。ところが、最近のマナー講師養成講座のウェブサイトなどを見ると、どうもそういう感じではない方々も少なからずいるようだ。もちろん、現代社会の日常生活やビジネスのマナーにそうした専門的な訓練が必要というものでもなかろうが、であるならば、さしたる根拠もないような話をさも重大そうに語るのはいかがなものかと思う。
たとえば服装のルールは、時代とともに大きく変化している。男性の例でいうと、いつぞや話題になった「ワイシャツの下に下着を着るか否か」以前に、ごく最近までスーツにノータイはありえなかったし、もう少し遡ればスーツはベスト付のスリーピース、袖はカフスボタンを付けるのが正式、さらに帽子をかぶるのが正式だった。しかし現代では、これらは必須のマナーではなくなっている。昼間からタキシードを着るのも許容範囲になりつつあるらしい。「〇〇はマナー違反」という「専門家」は、いったいどの国の、いつのマナーを基準に言っているのか。自分の好みで都合よくつまみ食いして人に押し付けているだけではないのか。
(3)マナーより気遣い
もちろん、地域や時代を問わずあてはまる共通の要素もマナーの中にはある。それは「相手への気遣い」だ。「相手への気遣い」はもてなす側、もてなされる側にかかわらず求められるわけだが、立場や考え方は人によって違うので、合意できる内容を探り合うなどしつつ、互いに気持ちよくすごせるようにするのだ。茶道でも、流派によって作法は異なるが、他流の茶会に出る時などは全体の流れを阻害しないよう臨機応変にふるまうべきとされる。
現代社会はかつてと比べ、社会の中での多様性が格段に増大した時代といえる。そうした中で私たちが互いに気持ちよく過ごしていくために必要なマナーは、多様性への配慮と相手への気遣いを欠かさないということだろう。
さしたる根拠も必要性もない形式上のマナーを後生大事に抱えこんで、それに従わない他人にどうでもいい口出しをすることこそ最大のマナー違反だ。とっくりのどの部分で注ごうが酒の味は変わらないし、目の前で薬を飲まれても自分の食事にそれが入るわけではない。出された茶に手をつけないのは茶を淹れてくれた人にむしろ失礼だし、印鑑を傾けて押さないと怒る上司など論外だ。
もちろん、マナー教育やそのための講師の必要性を否定するものではない。それぞれの社会や状況において、おおむね通用するマナーというのはある程度存在するし、それを知らずにトラブルを起こす者もいるのは事実だ。しかし、だからといって、それを炎上マーケティングや恐怖マーケティングのようなかたちで社会に発信するのはいかがなものか。
世のマナー講師の皆さんはむしろ、考え方や立場の大きく異なる人々が同じ社会の中で互いに気持ちよく過ごしていくためのコツや、マナーを知ることで生活がどのように豊かになるかなど、オープンで前向きな内容を発信していってもらいたい。
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