「マナー違反」はなぜ人の心を惹きつけるのか 優越感やコンプレックスを刺激する恐怖マーケティング

社会 2019.02.20 07:05

「Getty Images」より

 最近、マナーに関する話がネット上でよく話題に上る。たいていは「〇〇はマナー違反」といった記事が火元となって、多くの反発が寄せられるといった展開だ。最近見たものでは、こんなものがあった。

 「ご飯を食べ終わった後、お茶碗にお茶を入れるのはマナー違反」「薬を“人前で飲む”のはマナー違反」「とっくりでのお酌は注ぎ口を使うのはマナー違反」

 前に見かけたものにはこんなものもある。

「上司に出す印鑑は上司側に向かって傾けるのがマナー」「出されたお茶には手をつけないのがマナー」「男性はシャツの下に下着を着てはいけない」

 書いた側はともかく、少なくとも掲載したメディア側においては、これらは批判を集めることでアクセスを稼ぐ炎上マーケティングを意図したものだろう。

 このタイプのネタは、誰でも議論に参加でき、しかも決して意見がまとまらず、長く関心を惹き付けることができる。炎上ネタの中には、健康被害につながるものや犯罪を誘発するもの、他人に多大な迷惑をかけるものなども少なくないが、マナーに関する話はそうしたものと比べれば「実害」の少ないほうに思われるのだろう。

 この種の話題が人の関心を集めるのは、優越感やコンプレックスを刺激するからだ。学歴や職業、出身地や住所などの属性による人の優劣を取りざたするものは、だいたいこの類に属する。人は他人の属性を羨望したり見下したりするのが大好きなのだ。

 「旧華族」や「港区」、「東大」や「電通」といったわかりやすい記号をネタにしたコンテンツが受ける理由の少なくとも一部はそれだろう。マナーもそれらと同様、生まれや育ち、教養や能力、経験などを反映しやすく、その人の社会的「価値」を手軽に手っ取り早く示すことができる指標となる。だから「正しい」とされるマナーを知らないと不安になるわけだ。その意味でこのやり方は、恐怖マーケティングでもある。

「マナー」の根拠も検証も関心を惹かない

 実際にその「マナー」が根拠のある内容なのかどうかはほとんど関係ない。検証する能力のある人は少ないし、誰かが検証してもその頃には多くの人は関心を失っているからだ。書けば書いたもの勝ちの世界がそこにはある。

 だから商業メディアにとって手っ取り早い金儲けのネタになるわけだが、別にそれ自体を強く非難するつもりはない。個人的には好かないが、法に反しているとか多大な弊害があるとかいうのでもなければ、企業には志の低いビジネスで金儲けをする自由がある。

 そう思ってはいるのだが、そうした「マナー」で悩む人もけっこういるようだ。特にネットには、真偽も怪しいさまざまなマナーに関する情報が日々流れている。気にする人たちにとって、「〇〇はマナー違反」が一種の呪いのようになっているのだろう。私がこれまで考えていたより「被害」は大きいのかもしれない。

というわけで、3点ほど述べる。

(1)マナーは時と場所による

 マナーなるものは特定の文脈を前提に成立するのであって、あらゆる場合に通用するようなものはほとんどない。

 たとえば、最近話題になった「食後に飯碗で茶湯を飲む」は禅宗の精進料理や茶事の会席料理などでは伝統的な作法であるし、一般大衆の間でも以前からごくふつうに行われていた。それをマナー違反だというのは単に知らないだけだとは思うが、だからといって知らないことをバカにするのはいかがなものか。そもそもマナーや作法は無数に存在するものであり、また場所や時代によって変わっていくものでもあるからだ。

 日本の伝統的な作法と西洋式のマナーには矛盾する部分が少なからずある。茶道の多くの流派では茶(の少なくとも最後のひと口)は音を立てて飲むのが作法だが、西洋式のマナーではこれはアウトだろう。食事の際に食器を手に取るのもそうだ。だから場合によってやり方を変えればいいということなのだろうが、では海外の日本料理店ではどちらがよいのか(パリの一風堂でラーメンを勢いよくすするのはけっこう勇気がいる)。日本の西洋料理店ではどうか。外国人といっしょにいるときには? イギリス人、中国人、インド人、日本人で世界各国の料理が並ぶビュッフェで食事をするときはどうするのが正しいのか?

 ビールを注ぐときにラベルを上にするというマナーはよく見聞きするが、さしたる根拠があるとは思えない。ワインの連想かもしれない。高級ワインのラベルは多くが紙製で、飲んだあとにはがしてコレクションしたりすることがある。だからラベルを汚さないようにというわけだが、日本のビールのラベルは多くの場合、そういうものではなかろう。だいたいビールを客同士で瓶から他人のグラスに注ぎ合うというのは、日本の大きなビール瓶を前提とした話だ。日本酒の作法の応用だろうが、日本酒は一般的にラベルのついた瓶から直接注いだりしないわけで、そんなマナーに歴史も何もあったものではなかろう。

 現代社会では、自分で飲みたいだけ頼んで自分で注げばいいという考え方も普及してきている。誰かに注がせようという考え方自体がもはや時代遅れだ。味に影響する温度や注ぎ方ならともかく、その際のラベルの向きに文句をつけるなど、何をかいわんやである。

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山口浩

2019.2.20 07:05

東京都立大学(現・首都大学東京)法学部卒。博士(経営学)。現在駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部学部長・教授、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター上席客員研究員。著書に『リスクの正体!-賢いリスクとのつきあい方』(バジリコ)、共著に『ソーシャルメディア論』(青弓社)ほか多数。インターネットの普及が人間行動と社会構造にもたらす変化に早くから注目しており、提言は多分野に渡る。

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