カジサックいじり批判で宇野常寛氏に寄せられた「仕事放棄」の批判から読み解ける、日本社会の現実

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宇野氏への批判は、普段できないことの裏返し?

 宇野氏への批判内容を整理すると、

①その場の雰囲気やノリに合わせるべきであり、怒り出すのは大人げない。

②イベントを放棄して帰るのは社会人として不適格である。

③公の場で抗議するのは個人攻撃である。

 という3つに集約できる。

 だが、これらの批判は明確なロジックや信念に基づいたものではなく、むしろ、多くの人が普段できないことを宇野氏が実行したことに対する情緒的な反発と考えた方が自然である。

 たとえば、日本の多くの職場では、個性を発揮せず全体の雰囲気に同調するよう常に圧力がかかっており、一部の人はそうした風潮に対して強いストレスを感じている。また、そうした雰囲気が蔓延していても、その場から出て行くことは原則的に認められない。

 ムラ社会的な雰囲気が嫌でその場から離れる人に対しては、たいていの場合、②のような「社会人として不適格だ」といった罵声が浴びせられる。

 ③については、セクハラやパワハラの問題を考えればわかりやすいだろう。非道なことを行った人に対して被害者が抗議した場合、たいていは、加害者でなく被害者のほうが責められる。こうした時に加害者を守るために使われるのが「それは個人攻撃だ」というロジックである。

 多くの人はこうした風潮に対して嫌悪感を持っているが、我慢して日々を過ごしている。

 だが宇野氏は、こうした風潮に異議を唱え、さっさとその場から退場してしまった。一部の人は、「自分は我慢しているのに」と考えてしまい、自由な宇野氏に対して一種のルサンチマン(怨念)を持ってしまう。

 宇野氏に対して向けられた批判は、あるべき論ではなく、鬱積した不満が別の形で顕在化しただけにすぎない。したがって、どちらが正しいのかという論争をしてもあまり意味はないというのが現実だ。

ムラ社会からの脱却を阻む不安心理

 では皆が不満を抱えながらも、なぜ日本人はこうしたムラ社会を維持しようとするのだろうか。この問題に対しては、多くの識者がさまざまな見解を披露しているが、筆者は、個人の自立に対する不安が主な要因と考えている。

 「いじり」という呼び名の「いじめ」が日常的に行われている社会が、心地良いとはとても思えない。普通に考えれば、他人がいじめられている時は自分が被害者にならずに済むという消極的なメリットしか存在しないように思える。だが多くの日本人にとって、「自分は自分」という形で自立し、他人と一定の距離を置いてコミュニティを形成することは、それ以上に不安なことなのだ。

 このため、あえて息苦しいムラ社会を形成し、そこで生じる不都合な状況を甘んじて受け入れていると考えられる。

 実はこうした心理は、経済活動にも大きな影響を与えている。多くの人が不安心理からムラ社会的な集団を形成し、その状態から抜け出せないと、個人消費主導で経済を成長させることができない。

 日本は戦後、輸出主導で経済を成長させてきたが、輸出というのは外需であり、これは日本国内の状況と関係なく発生する。外国がモノを欲し、それに対応できる生産力があれば経済は成長するので、高度成長期において日本社会の風潮が経済にマイナスの影響を与えることはなかった。

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