「男女半々だから良い」は安易な政策 日本が目指すべきは男女平等か、男女公平か

連載 2019.03.03 12:05

女子教育が世界を救う/畠山勝太

 先日ネット上で、社会の物が平均的な健常男性に合わせて作られているというトピックが話題になっていました(この社会のものが、「平均的な健常者男性」に合わせて作られているという説から見えてくる様々なバリア「つり革も届かない」「逆に集合住宅のキッチンつらい」)。

 そこでは、電車の網棚やつり革の高さが男性に合わせて作られているため多くの女性にとっては高過ぎる、逆に集合住宅のキッチンは女性に合わせて作られているため多くの男性にとっては低過ぎる、といったことが議論されていました。

 ほぼ時を同じくして、ガーディアン紙に掲載された記事を契機に海外でも同様のトピックが話題になっていました。この記事によると、社会の物が男性基準で作られているために、女性にとっては以下のような問題があるようです。

・職場で推奨される冷房の温度が女性には寒すぎる
・職場での安全基準が女性の体格にあっておらず、労災に晒されるリスクも高まっている
・携帯電話やパッドが女性の手には大きすぎる
・音声入力ソフトが女性の声を認識しづらい
・車の規格的に事故に遭った時に女性の方が重傷・死亡する確率が高い

 これらは「男女平等とは何なのか?」を考えさせられる興味深いトピックです。そこで今回はこの問題を考えるために、ジェンダー平等(Gender Equality)とジェンダー公平(Gender Equity)の違いについてお話しようと思います。国連勤務時代に講師としてこの手の研修をしていたので、やや事例が途上国に拠ってしまいますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

ジェンダー平等とジェンダー公平とは何か?

 ジェンダー平等は、男女間の差異に関係なく、男女が等しく扱われることを目指すものです。具体的に言えば、大学進学率が男女で等しくなる、国会や地方議会で政治家が男女半々になる、といったものです。これに対してジェンダー公平は、男女間の差異を考慮して、社会的な成果が男女間で平等になることを目指すものです。

 分かりやすさのために一旦ジェンダーのレンズを外してみようと思います。平等と公平の違いを最も分かりやすく説明する事例として、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センの議論をざっくりと引こうと思います。

 目の前に足が不自由な人とそうでない人がいるとします。両者に自転車を与えた場合、二人は平等に取り扱われたと言えます。しかし、足が悪い人は、自転車を与えられても行動範囲が広がることはないですし、足が悪くない人が出来るようになった様々なことが出来るようになるわけでもありません。これが、両者が平等に扱われているけれども公平には扱われていない、という状態です。

 この出来るようになることが、足の悪い人とそうでない人の間で平等になるためには、どちらにも何も与えないという選択肢もあり得ます。しかし、これは日本社会でもたまに見られる悪平等というものです。悪平等を避けつつ両者の間で出来るようになることの平等を目指すとしたら、例えば足の悪い人には自転車の代わりに電動車椅子を与えるという方法が考えられます。このように、両者が持つ差異を考慮して、社会的な成果(出来るようになること)が平等になることを目指すのが公平なわけです。

教育における男女平等と男女公平

 では、教育において男女平等と男女公平はどのようにして扱うことが出来るでしょうか? ここでは私の本業である途上国を例に出してみたいと思います。再三再四この連載でも言及しているように、日本は教育における男女平等の実現からほど遠い所にありますが、多くの途上国も似たような状況にあります。

 途上国で学校にアクセスできない・退学してしまう理由は男女間で大きく異なります。どちらも貧困が背景にはあるのですが、男子は主に働くために、女子は主に結婚・妊娠のために学校システムからいなくなります。

 こうした状況を改善するためにはどういった方法が考えられるでしょうか? 「直接の理由は異なっているけれど、貧困という間接的な原因は同じなのだから、それに取り組めばよい」と思うのが一般的かもしれません。こうした考え方は、大きくは間違っていません。実際、現在途上国の教育支援では、貧困層への直接の現金給付が一大ブームとなっていますし、大きな成果を生み出しています。

 しかし、本当にこれで良いのかと言われると、教育の専門家としては「良くない」と言わざるを得ません。というのも、こうした方法は、別の問題を後ろ倒しにしているだけに過ぎないのです。

 以前の記事で、先進国では「男子の落ちこぼれ問題」が火を噴き始めていることを説明しました。この問題は「早く稼げるようになることこそが男として一人前の証であり、教育を受けるのなんてバカバカしい」というマスキュリニティ(男性性)の存在が原因の一つとして挙げられます。

 また、日本の女子教育が拡充しない理由の一つとして「女の子が学歴を求めていては結婚できなくなる」といったジェンダーステレオタイプの存在があります(朝日新聞でこの問題を取り扱った特集があるので、ぜひ目を通して見てください)。

 このように、途上国と日本を含めた先進国の教育とジェンダー問題の構図は、単に豊かさが違うために問題が小中学校で発露するのか、大学・大学院レベルで発露するのかの違いに過ぎないのです。

 つまり、男女平等にお金を配って教育問題を解決するという手法は、全体の教育水準を向上させることには有効であっても、問題が発露するのが単に後ろ倒しになるだけで教育における男女公平には至らないことが分かります。これが、男女平等であっても男女公平ではない教育政策の一例です。

 では、途上国で実施される男女公平な教育政策にはどういうものがあるのでしょうか。

・学校に女子トイレが無いと初潮を迎えた女子が学校を休まざるを得なくなる。場合によっては退学につながるので、女子トイレを優先的に整備する
・低年齢での出産がいかにリスクの高いものであるか、女子の教育水準が伸びるとどのようなメリットがあるのか、といったことをコミュニティに訴えかける
・強いマスキュリニティを解消するために、青年団体やギャング組織への働きかけを行う

 これらの教育施策は、男子か女子のどちらか一方を対象としているので全く男女平等ではありませんが、男子・女子それぞれが抱える教育上の課題に取り組んでいるものです。こうした施策が同時に実施されれば男女公平な教育施策と言えるでしょう。

 教育はそれ自体が目的ではなく、将来何かを実現するための手段であることを考えれば、男女平等ではなく男女公平を目指した施策が為されていくことが望ましいと考えることができるはずです。

まとめー日本が目指しているものは男女平等か、男女公平か?

 では今の日本の教育や社会が目指しているのはどちらでしょうか?

 現在、国会議員ないし、その候補者が男女半々になること、中央省庁の幹部職員のX%が女性になることなど、数々の目標が掲げられてはいます。しかし、それを実現するための女子教育の重要さは見過ごされているのが現状です。つまり、日本はいまだに男女平等を目指しているに過ぎないのです。

 日本の教育を見ると、男子は家族を養って一人前というジェンダーステレオタイプに影響されてか、一般職・看護師・保育士などを目指した進路が取りづらくなっています。また、女子は教育を受けると結婚できない、手に職を付けるべきだといったジェンダーステレオタイプから学歴・学校歴も低く、理系への進学も低い水準にとどまっています。

 また、日本には性的マイノリティの子供がいじめられる・自殺するという深刻な社会問題も存在しています。子供達に関係する全ての課題とニーズが配慮される社会にするには、「男女半々だから良いか」という安易な政策ではなく、それぞれが持つ異なる課題・ニーズに対応した教育政策が必要なのです。

畠山勝太

2019.3.3 12:05

ミシガン州立大学博士課程在籍、専攻は教育政策・教育経済学。ネパールの教育支援をするNPO法人サルタックの理事も務める。2008年に世界銀行へ入行し、人的資本分野のデータ整備とジェンダー制度政策分析に従事。2011年に国連児童基金へ転職、ジンバブエ事務所・本部(NY)・マラウイ事務所で勤務し、教育政策・計画・調査・統計分野の支援に携わった。東京大学教育学部・神戸大学国際協力研究科(経済学修士)卒、1985年岐阜県生まれ。

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