『人形の家』のクリスティーネとノーラの関係は友好的で、女性同士の友情がきちんと描かれています。ただ、高校生の私がちょっとがっかりしたのは、クリスティーネがノーラを脅迫しているワルのニルスと結ばれてしまうところです。
クリスティーネとニルスは昔お互いに好き合っていたのですが、経済的な事情などで別れることになり、その後ニルスは悪い道に堕ちていました。クリスティーネの愛でニルスは更正を志し、ノーラは救われることになる……のですが、今まで苦労していたクリスティーネがなんでわざわざまたダメ男とくっついて苦労しないといけないんだろう、だいたい展開が急で都合が良すぎるんじゃないか……と思いました。ノーラにはドラマティックな家出という結末が準備されているのに、クリスティーネの人生はなんだかパッとしないように見えました。
『ヘッダ・ガーブレル』のテアにはさらに悲惨な運命が待ち受けています。ヘッダとテアの関係は、ノーラとクリスティーネみたいに良好ではありません。テアはエイレルトと一緒に新しい著作を準備していたのですが、ヘッダの策略でこの著作の原稿は焼かれ、エイレルトは自殺します。
この2作を読んだ高校生の私は、こんなの結局可愛い女の子の話じゃないか、やっぱり華やかでモテる有閑階級のお嬢様でないとドラマのヒロインにはなれないんだ、と思ってがっかりしました。ガリ勉で真面目で、自分で手に職をつけて働かないといけないクリスティーネやテアや私は添え物なのです。私たちのほうが魅力がなくて田舎者であるぶん、苦労しているはずだというのに!
ノーラもヘッダも、実は私だった
ところが、イギリスに留学して劇場でイプセンを見るようになってから私のイプセン観が大きく変わりました。
初めて劇場で『人形の家』と『ヘッダ・ガーブレル』を見たのは2012年のことで、高校を卒業してから10年くらいたっていました。この間に私はフェミニズムや演劇についてたくさん勉強し、男の子と付き合ったり、事務のアルバイトをしたり、エイレルトやテスマンみたいに論文を書いたりして、ずいぶん人生経験が増えました。そこで見たイプセンは、全然違うものに思えたのです。
舞台で動き回っているノーラやヘッダは、高校生の時に私が想像していたいけすかない可愛子ちゃんたちとは全く違う、血の通った女に見えました。初めてロンドンのヤングヴィク劇場で見た『人形の家』の舞台では、ノーラが取り乱してあまり言いたいことを整理できていない発言をし、一方で夫のヘルメルは落ち着いて秩序だった受け答えをする、という場面があります。ところが、一見感情的でメチャクチャに見えるノーラのほうが明らかに言っていることに筋が通っており、冷静な夫のほうがおかしい、ということが観客にはわかるように演出されていたのです。ノーラは本当はいろいろなことを真面目に考えているのに、外見が可愛いのと、自分の意見を筋道立てて話す訓練を受けていないせいで偏見の対象になっていて、みんなからバカだと思われているのです。ノーラのことを本気で心配しているクリスティーネすら、初めはそういうところがありました。
私がクリスティーネだとしたら、ノーラみたいな女の子を軽く見てはいけなかったのです。高校生の私にはよくわかりませんでしたが、可愛いからこそ受ける性差別というものが存在し、ノーラはそれに困っています。彼女が最後に家を出て行くのは、美貌が必ずしも女性を幸せにしないからなのです。
ヘッダについては、実はテアをバカにしているんじゃなく、テアみたいになりたいんだということに気付きました。テアはヘッダほど美人ではないかもしれませんが、自分の能力を信じ、エイレルトに対する愛情に全てを賭けて、社会の規範に挑戦しています(それでも19世紀の女性なので、限界はあるのですが)。一方でヘッダはとても美しいがゆえに、自分が慣れ親しみ、活用してきた社会の規範を思い切って裏切るだけの勇気が出せません。『ヘッダ・ガーブレル』は、ヘッダみたいな美女が、どっちかというと私に近いテアにこっそり憧れているという話だったのです。
ヘッダはテアだけではなく、エイレルトをはじめとする男たちにも憧れ、嫉妬しています。これは男たちがヘッダには許されない自由を有しているからです。ヘッダは自由を欲し、妊娠や子育てによって家庭に囲い込まれることを恐れています。高校生の私には全然わからなかったのですが、この話には実は、ヘッダが周りの人たちから妊娠を疑われているものの、自身はそれをイヤだと思っているというほのめかしが随所に見られます。こういう細かい機微は、なかなか大人にならないと読み取れないところです。
大人になって『人形の家』や『ヘッダ・ガーブレル』を見ると、こういう作品はこの連載初回でとりあげた「キレイが人生の邪魔をする」というテーマを19世紀的な観点から掘り下げた話だったのだということがわかります。私はノーラやヘッダほどキレイじゃないかもしれませんが、自分がバカだと思われるんじゃないかとか、妊娠が怖くてイヤだとか、そういう気持ちはとてもよくわかります。実は、ノーラもヘッダも私だったのです。
女性をキレイと不細工で分断するのはとても良くないことです。高校生の頃の私には、それがよくわかりませんでした。でも、大人になった今はわかります。可愛いノーラとガリ勉のクリスティーネが抱えている問題の根っこは実は同じで、女性の人生の選択が性差別や経済的な抑圧によって制限されることです。ノーラとクリスティーネが美人とガリ勉の壁を越えて助け合ったのは、すごく正しいことだったのです。
参考文献
ヘンリク・イプセン『ヘッダ・ガーブレル』原千代海訳、岩波文庫、1996。
ヘンリク・イプセン『人形の家』原千代海訳、岩波文庫、2002。
1 2