「寄り添う」でも「理解する」でもない、ともに学ぶ「LGBT」/石田仁×金田淳子

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「簡単に受け入れない」リアリティ

石田 こうしたホモフォビアに基づく社会構造の中で、最近のBL作品の中には、その社会構造をきっちり描きつつも、男同士の登場人物が背景となった社会を乗り越えようとする作品が出てきました。これらのBLは、社会のあり方を変える可能性を示す1つの方法になるのではないか、という議論があるんですね。読んでいて良いなあと思わせるBLが増えました。

金田 描いてる人たちは「そういう意図じゃないから」ってわりと言うんですけど、意図とは関係なく起こっている。溝口彰子さんが『BL進化論』(太田出版)で、ゲイフレンドリーかそうでないか、という視点で、良くなかったものと、良いと思われるものとを、ちゃんと例を挙げる形で論を展開されています。

石田 作品のユニークさを追求することと、その作品から社会一般の構造を説明するということを同時にやっているわけですね。

金田 手前みそながら、「ユリイカ」2018年12月号で「雲田はるこ特集」が組まれていて、そこで私は、雲田はるこさんのBLにおける位置づけを問い直す、BLの中でも特殊だってことを書かせていただいたんです。ここでBL作品を、主人公カップルの外見の差と、物語の傾向という二つの軸でマッピングしています。物語の傾向をもう少し説明すると、一方には、物語がそのカップリングの二者だけでまわってほしいし、周りの事件や人々はその添え物、道具であるという描き方があります。

石田 それが天動説BL。

金田 そう。対して、地動説BLは、主人公カップルはもちろんいるんだけど、その周囲の人々で、かつそのカップルと別に恋愛関係とかでもなんでもない第三者の人の事情まで含みこんだ人間ドラマがうかがえる描き方です。天動説と地動説では全然作品性が違うわけですが、とはいえこれはBLの多様性を提示するための軸なので、どちらのほうが作品として優れているということではありません。また、天動説が多くなりやすいというジャンルの特性もあります。BLって続編まで描けるほど売れる作品は特殊なんですね。長編ならまだしも短編では第三者を織り込んだものはなかなか描けないので、単純に紙幅の関係で、二者関係が多くなりがちなんですね。雲田はるこ作品を分類するとしたら、地動説の中でもかなり第三者について踏み込んで描いているものになります。

BLにおける第三者の描き方で今回、注目したいのは、女性キャラの描き方です。雲田さんの作品では、主人公カップルがゲイであることを受け入れられない女性たちが出てきます。重要な他者である、お母さんや妻が受け入れられない。複雑で、リアリティのある人間関係なんです。そもそも歴史的経緯を言えば、この20年ぐらいのBLの女性キャラって、初めから主人公について理解しきった人が出てきがちなんですね。有名作家の作品から、わかりやすい上質な例を挙げるとするなら、たとえば、よしながふみ先生の『1限目はやる気の民法』(単行本1998年)があります。特に仲いいわけでもなかった女性の友達がふたりの仲を見抜いていて、陰ながら応援してくれるという描写がありますね。

石田 それ以前の時代では、ホモフォビアな表現がBLに蔓延していた。その後、世間がLGBTに許容的になるにつれなのか、ホモフォビアを全開するBLは「ダサい」表現になっていったからか分かりませんが、淘汰されていきました。しかしこの新しい段階における作品には、ゲイとして主要登場人物が出てきて、その性的指向をことさら問われないものや、ゲイを祝福する物語を持つような、ホモフォビアを物語から抹消した作品も多かった。これが2000年代半ばから後半の動きですね。その次の段階として、このどちらでもない、「受け入れきれない」物語を描くという、時代的な蓄積があったんですね。

金田 そうです。90年代末に、主人公がゲイであることを理解してくれる女性キャラが出てきたのは当時ひとつの進歩ではあった。その前のBLでは、たとえば恋敵の女などの類型があって。

石田 当て馬。

金田 当て馬として出てきて、私もその当時は、その女性キャラを見るのがつらいっていうか、こんななら出てこないでほしいという気持ちになりました。その後に出てきた、女性たちが男性カップルを理解して応援して、男性カップルにも感謝されてみんなハッピーみたいな作品を見ると、やはりほっとしますし、自分もこうありたいなと思う。けど、雲田はるこ先生が『いとしの猫っ毛 小樽篇』で描かれているように、母親が息子からカミングアウトされて、さらに前々から義理の母にあなたの育て方がおかしいと言われてる状況が現実にあったら、簡単に受け入れられる? と考えさせられますね。雲田先生のBLマンガは、こういう風に、主人公たちに対していじわるに見える人が出てくるんですが、その人なりの事情があってそのカップルを素直には祝福できないという部分も描かれていて、リアリティがあると思うんです。事情があればホモフォビアがあってもいいんだ、というわけではなくて、現実にはホモフォビアがまだはびこっている社会なので、男性カップルを受け入れられない女性が、主人公たちの身近にもいるだろうという状況を、あえて描いている、ということですね。BLの女性読者が安心しやすい、主人公を理解しきって応援する女性キャラクターという類型から、一歩踏み込んで、新しい女性キャラを描いているなと思います。

必要なのは「いつも初めて学ぶ一歩」という態度

石田 実は今回の本のタイトルとして出版社が推した案は『知っておきたいLGBT』で、副題に「気持ちに寄り添い理解する カミングアウト、同性パートナーシップ、SOGI、セクシュアルマイノリティ」と付いていました。長っ! スッキリしない!(笑) 「知っておきたい」でよいのだろうか。上から目線ではないだろうか。書中ではLGBT研修の危うさのことも触れていますが、ここまで知ればオッケーというものはないだろうと思うわけです。私たちは全員、入門者です。そうしたことを考えて「はじめて学ぶ」にしてくださいとお願いしたんです。

金田 ちょっと脅迫的ですよね。

石田 「気持ちに寄り添い理解する」も気になって。

金田 これも上から目線だし、今の話に繋がりますが、そんな簡単に理解できんのかよとも思う。

石田 新聞などのメディアでくり返し表現されている「ありのまま」の「理解」って、マジョリティにとってもマイノリティにとっても、危うさを持つと私は思います。私は歴史研究をしているので、かつて「LGBT」とか「当事者」という言葉もない時代における性的マイノリティに該当する人の言説も追っています。昔の「当事者」は、“社会は変わらないといけない、そのために私たちも勉強する、勉強することによって私たちも変わる”って言ってるんです。80〜90年代ですね。これがいつしか変わってしまって、残念なことに当事者が勉強しなくなりました。“このままの私でいい”って言う言説って、自分を変えないばかりか、現状の社会構造を是認する態度と隣り合わせでもあると思います。男性の特権性に気づかないゲイが「俺たちなんにも差別されてないから権利とか別にいいっすよ」って涌いて出たのが2018年でした。

金田 別にLGBT政策いらないよみたいな。男性としての特権を保持したままっていうことですね。

石田 それは無自覚なままですね。なので、外してもらいました。「寄り添う」という言葉はあまり使いたくないです。

金田 そうそう。そんな簡単に寄り添えない。たとえば、BLは基本的に女性が女性のために描いているジャンルで、ゲイのためのジャンルではありません。それなのにBLを読んだだけで、現実のゲイを理解したとか寄り添えたとか簡単に思ってしまうとしたら、そのほうが危険だと私は思います。

石田 だからこそ、自戒も含めてなのですが、私たちはすべて、いつも初めて学ぶ一歩を踏み出す人であるという意識でありたいです。みんなで勉強して、みんなも変わってって、社会も変えていきたい。そのための一冊になれたら嬉しいです。
(取材・構成/鈴木みのり)

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