令和が来る前に世界に1つだけの花を――「ナカイの窓」の外、あるいはSMAPと移民の唄

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 中居の発言は、ソーシャルメディア上を駆け巡りながら、まさに「炎上」していた。日本語に不慣れな外国人をあげつらうような発言。それを社会に流布する番組としての姿勢。中居はまさに「日常的な笑えるトラブル」として、その「ネタ」をくりだしたのであろう。外国人を排斥するような言葉がオンライン上でも街中でも飛び交う現代日本社会において、あまりにも不用意であったといわざるをえない。

 もし仮に、自分が海外で言語の習得に励みながら働く毎日を送っていたとしたら。ある日「国民的」な著名人がその姿を嘲笑したとしたら。わたしたちは、次の日も安心して働けるだろうか。

 ジャーナリストの芹澤健介は、全国のコンビニで働く外国人は大手三社のみでもすでに2017年に4万人を超え、スタッフの割合でいえば20人に1人が外国人である状況であるという(芹澤健介2018『コンビニ外国人』新潮新書)。芹澤によれば、コンビニで働く外国人の多くが留学生であり、中には多額の借金を背負って留学をした者もいるそうだ。借金を返すためには働かねばならない。だが、「週28時間」という外国人留学生が働ける上限時間を設けたルールによって、稼いだぶんは学費と生活費に消えてしまう。しかしルールを破れば不法労働者として母国に強制送還されてしまうため「真面目な学生ほど生活は困窮していく」状況にあるという。そうした状況に置かれる外国人は留学生のみならず、改正入管法によって「現代の奴隷制度」と呼ばれる技能実習生にも「国際貢献」の名の下に開かれる可能性が高いそうだ。

 コンビニで働く外国人の問題状況を社会課題として取り上げるのではなく、問題状況を背景に持つ人々自身を「世直し」されるべき存在として狙いを定めたのが、平成を代表するヒットソングを歌った「国民的アイドル」であり、『ナカイの窓』だったというわけだ。問題状況ではなく、そこに追い込まれる力学に巻き込まれた人々に狙いを定め、嘲笑するかのような番組構成。すでに指摘されているように、まさに「バラエティ番組で行われるやり取りは、日常生活における私たちのコミュニケーションのあり方に大きな影響を与える」(https://wezz-y.com/archives/64024/3)可能性をもつ。困難な状況に巻き込まれた人々を嘲笑する、というコミュニケーションの「やりかた」を流布させてしまったからこそ、中居の発言は問題であったといえる。

 だが、もう少し考えみるべきことがあるように思う。なぜなら、テレビ番組とは、視聴者を想定することなしに制作されることはないからだ。「ナカイの窓」は、先回りをしてみせたのではないだろうか。中居正広は、日常の風景を切り取ってみせただけではないだろうか。コンビニの外国人に辛くあたる日本人の「お客様」の姿を。

 2018年11月2日。深夜の渋谷のコンビニ。レジ前で、ものすごい剣幕で外国人らしき従業員を怒鳴りつける「お客様」。裏から出てきた先輩従業員も外国人らしき人だったからか、「おい、外国人しかいないのかこの店には」とすごむ。その様子を、なぜか薄ら笑いを浮かべながら眺めるほかの「お客様」。その横を、日本人らしき従業員がすり抜けて、怒鳴る「お客様」の要件を聞き出す。どうやら、郵便物のラベルが適切なものではなかったらしい。「怒鳴るお客様」は「もういいよ」と言い残して立ち去った。薄ら笑いを浮かべていたお客様はいつの間にか無表情で、さっきまで怒鳴られていた外国人らしき従業員のレジに並ぶ。

 『ナカイの窓』で中居正広が発した「ネタ」は、『ナカイの窓』の外に、ありあまるほどありふれた、日常の風景の再演だったのではないだろうか。

 「花屋」ではなくてコンビニで、「オンリーワン」な存在というよりも大勢いる従業員の1人としてみられがちで、その能力を「世直し」の対象として眼差しを向けられる海外のルーツをもつ人々の日常が、『ナカイの窓』の外に広がっているのだ。その日常は、コンビニを介して、わたしたちの日常ともすでに接続されている。大勢の人々が『ナカイの窓』に抗議の声を挙げたのは、その接続をすでに知っているからだ。

 だが、同時に、わたしたちは問われている。出先や自分の生活圏で利用するコンビニでそうした「お客様」と外国人従業員のやりとりを目撃したときの振る舞いを。いや、そもそも、わたしたちはどのように、コンビニで振る舞っているのだろう。「次の時代を担う」意気込みや「明日への希望」をもち「それぞれの花を大きく咲かせることができる」「希望に満ち溢れた日本」を「作り上げていきたい」と思っていたとしても、では実際、海外にルーツをもつ人々と出会ったときに、どのように振る舞っているのだろう。

 ここから先は、少し個人的な話をしてしまうことを許してほしい。

 筆者はスーパー(正確にはディスカウント・ストアらしい)で大学生の頃から8年間ほど働いていたことがある。大型トラックで配送されてきた商品の荷出しからレジ打ちまで、ひと通りこなしてきた。そのなかで、いくつか印象的な出来事があった。

 「えらいねぇ。こんな遠いところまでやってきて一生懸命働いて!」といった言葉を1年に数度かけられる経験である。日本生まれ・ほぼ日本育ちのアメリカにルーツをもつ「ハーフ」である僕が、なぜか大勢の人々が見ている前で「あぁ、いや、僕はですね……」と自己紹介を始めねばならない時間の到来である。正直にいえば、あまりにも忙しければ「お客様」がイメージする「そーゆーこと」に同調してしまうこともあった。

 この、なんとも「むずがゆい」経験もまた、あまりにも、ありふれた日常の風景である。あらゆる人からのお褒めの言葉が、ほのかに「上からのお客様目線」であったとまでは思っていない。だが、場合によっては、どこか幼い子どものように、上下ないしは垂直的な関係性のもとで自分を扱われているような感覚を味わってきたこともたしかである。「世界に1つだけの花」よろしく、「オンリーワン」な存在であるとの感覚を労働現場に求めるというよりも、もう少し水平的な関係性をなんとなく求めさせられる場面が、時にあった。

 先述の「ナカイの窓」で取り上げられた状況とは異なるかもしれないが、やはり、こうした垂直的な関係性のもとで海外に(も)ルーツをもつ人々が扱われている状況も、「ナカイの窓」の外で広がっているのではないだろうか。

 ところで、この文章の最初のほうで、「平成が終わってしまうことに寂しさを感じる」と書いた。その寂しさよりも、SMAPのリーダーだった中居正広の「ナカイの窓」での言葉のほうが、僕にとっては「寂しい」ものだった。僕は熱心なファンであるとは言い難いが、それでもSMAPという存在にメディアを介して触れてきた1人ではあるからだ。一番はじめにSMAPに触れたのは、たしか幼稚園での出し物で『オリジナル・スマイル』を数人で踊ったことはぼんやりと覚えている。月曜22時からやっていたテレビ番組『SMAP×SMAP(スマスマ)』やお正月番組の『さんタク』、SMAPメンバーが出演していたドラマもよく見ていた。メンバーの香取慎吾が出版した英語の教則本『ベラベラブック』も、草彅剛が出版した韓国語を学ぶ『チョンマルブック』もいつのまにか持っていた。「世界に1つだけの花」が上海で中文バージョンとして歌われたときも、なにかの番組で見ていたし、解散前の謝罪会見には違和感と事務所への怒りを禁じえなかった。

 熱心なファンに怒られそうなくらい、絵に描いたようなミーハーっぷりだが、そんなミーハーの1人としても、『ナカイの窓』で流れた「外国人ネタ」は笑えなかった。「国民的アイドル」と呼ばれる彼らの活動を家族に「外国人」がいる、海外に(も)ルーツをもつ筆者も見聞きしてきたからだ。SMAP自身も海外公演をはじめとして、「日本的なもの」に必ずしもとらわれきれない活動をしてきたはずだ。それゆえに、中居――中居クン――の「外国人ネタ」に、なんともいえない「寂しさ」を感じたのだった。中居正広に「外国人ネタ」をさせてしまうような日常が、目の前に広がっていることに、大きな不安を感じる。

 2019年4月1日。改正入管法の施行、新たな元号、「世界に1つだけの花」という楽曲が緊密に結びつけられてしまった日。わたしたちの日常が令和〇年とも呼ばれてしまう5月1日が来る前に、わたしたちは何度でも「世界に1つだけの花」を聴く必要がある。

 あの曲には、「やっと店から出てきたその人が抱えていた色とりどりの花束と嬉しそうな横顔」という歌詞があった。店で売られている「花」が「移民」だとしてみよう。「店」で「花」はどのような価格で「売られている」のだろうか?「嬉しそうな横顔」を見せている「お客様」の振る舞いは?オンリーワンと呼ばれようが、ナンバーワンと呼ばれようが、それぞれの「花」はひとりでに咲くわけでもないし、理不尽な状況で枯れさせられていいものでもないはずだ。改正入管法が、具体的な場所で、固有の顔をもった人々になにをもたらすのか。それを見極め、適切に声を上げ続けるための手がかりを、わたしたちを楽曲と元号にまつわる詩と法律の施行を言祝ぐ人々の声との間に走る亀裂の音から、聞き出さねばならない。

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