見る側、伝える側の「清潔」の受け取り方
最近の「バイトテロ」の多くは飲食物がらみで起きている。私たちが客として口に入れる飲食物が不衛生、不適切に取り扱われている写真や動画は確かに見るのも不快だが、ここで少し立ち止まって考えてみたい。私たちがそれほど飲食物に「敏感」なのはなぜなのだろうか?
もちろん、飲食品を提供する企業はその安全性について十分な配慮を行うべきであって、報じられているような「バイトテロ」があれば大掛かりな対策を迫られるというのはおかしなことではない。だが、私たちの大半は、自身が日常的に口にするものについて、そうした企業と同じレベルの注意をしているわけではなかろう。
俗に「5秒ルール」ないし「3秒ルール」などと呼ばれるものがある。地面に落とした食べ物でも数秒のうちに拾えば汚くない、といったものだが、科学的根拠の有無はともかく(Wikipediaによるとあるらしいが)、実際にそのようにふるまう人は少なくない。極端な話、昔の街の安い飯屋では客の残した料理を他の客に出すこともあった。今見れば「うへぇ」となること請け合いだが、昔は今ほど気にしなかったのだろう。
何が清潔で何が不潔かという感覚は、実際に清潔かどうかだけではなく、受け手の側が抱くイメージによっても大きく左右される。いわゆる「穢れ」の感覚であり、それは社会の状況によって変化する。
仮にある特定のチェーンの特定の店で、特定の従業員が飲食物を不適切に取り扱ったとしても、私たちのほとんどはその特定の店に行くわけではない。同じチェーンの店にすら行ったことがないかもしれない。その特定のチェーンの特定の店の特定の従業員がそうした行為を行ったとしても、同じ店の別の従業員、同じチェーンの別の店の従業員、違う企業が経営する店の従業員が同じことを行っているわけでもない。しかし「バイトテロ」があるとしばしば、同じチェーンの他の店や、同業の他チェーンの店すら避けたりする人が出てくる。
もともと日本人は清潔を重んじるとよくいわれるが、そうした感覚に大きな影響を与えているのはメディア、特にマスメディアだ。プラネットが2018年に行った「平成の日用品に関する意識調査」では、平成の30年間で使用頻度が増えたと思う日用品を消費者に尋ねているが、上位のほとんどを「清潔」関連商品が占めている。
これらを製造するのは最も多くのテレビ広告費を払っている業界であり、それらの広告を通じて私たちは日々、自身が「不潔」とみられることへの恐怖感を刷り込まれている。報道や情報番組などでも、「バイトテロ」を報じる際には必ず街角インタビューで「ああいう店には行きたくない」などという映像が繰り返し流される。
そうしたものを繰り返し見るうち、ある店で「バイトテロ」があると、同じ店の別の商品、同じチェーンの別の店の商品にまでその「穢れ」が移ったように感じてしまう。それが無視できない規模の風評被害につながるのだろう。考えてみれば、「バイトテロ」ということば自体、この種の行為への恐怖を過剰におどろおどろしく表現したものといえる。メディアに煽られている部分は小さくはないのではないかと思う。
生活水準の向上による意識の変化はむろんあろうが、近年の「過剰」な「不潔」への忌避は、もはや「穢れ」を忌み嫌う迷信の領域にまで達している。もちろん、清潔を好むこと自体は悪いことではない。しかし、それが適切な知識や判断力と結びつかなければ、迷信に直結する。ごく一部の店のごく一部の従業員による不届きな行為にすぎないものを株価や企業業績の下落にまで結びつけているのは、それを企業全体に対する「穢れ」のように感じる社会的風潮であり、突き詰めればそれはある種の迷信だ。
「バイトテロ」を「テロ」にするのは誰か?
その意味で、「バイトテロ」を「テロ」たらしめているのは、メディアでもあり、また私たち自身でもある。迷信を信じること自体はもとより個人の自由だが、それが社会に無視できない問題を引き起こすとなれば、「本人と企業のどちらが悪い」などと呑気に居酒屋談義をしている場合ではなかろう。
本物のテロについては、「テロを防止するため、テロに屈せず日常生活を維持しよう」という主張がある。テロは一般市民が恐怖で萎縮することによって効果を発揮するものだからだ。もし「バイトテロ」が「テロ」であるとするなら、似たことがいえるだろう。「バイトテロに屈しない」ことで、「バイトテロ」はテロたりえなくなる。メディアもそうした発信を行うべきだろう。
本物のテロと違って、それでこの種の行為自体が減るかどうかは疑問だが、少なくとも「不潔」への恐れで不幸せになる人は減る。私たちの社会は今より少し、ましになるのではないだろうか。