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「子ども食堂」ムーブメントの隠された“シナリオ” 政府は7年前から社会保障の国家責任を放棄してきた

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「Getty Images」より

「ファミマこども食堂」は、「子ども食堂」への冒涜か?

 2019年2月、全国でコンビニチェーンを経営するファミリーマートが、「ファミマこども食堂」を全国展開する計画を公表した。プレスリリースによれば、「ファミマこども食堂」とは、店舗スペースで開催されるイベントで、1回あたりの開催時間は40分間の食事と20分間の体験イベントを組み合わせて1時間であるという。体験イベントの例としては、コンビニのバックヤード探検やレジ打ち体験が示されている。

 「ファミマこども食堂」の計画が公表されると、直後から、「企業の社会的貢献という名の広報イベントではないのか」という大きな批判と、批判者への批判や称賛が湧き上がった。

 フリーライターの赤木智弘や社会運動家の藤田孝典は、「ファミマこども食堂」の名称を「簒奪」と批判した。赤木は、「ファミマこども食堂」プレスリリースが公表された翌日の2月2日、大手ハンバーガーチェーンのパーティーやスタッフ体験と似た内容の企画に対して、「『こども食堂』という言葉を簒奪したことが許し難い」とツイートした。同日、藤田は赤木のツイートに応え、「ファミマで子ども食堂というのはある意味で名称の簒奪であり、企業イメージや利益をめぐる戦略だと思います。過去の子ども食堂の実績をないがしろにするものです。子ども食堂関係者のなかに様々な葛藤があるはずです。立ち止まって関係者には考えてもらいたい」とツイートした。

 藤田の主張は、翌2月3日に公開されたネット記事において、より詳細に示されている。そこには、以下の記述がある。

「子ども食堂を名乗るのであれば、マニュアル化した形式的な取り組みではなく、先駆者たちの実践(温かい食事、献身的な交流、福祉的支援)に敬意をもって、せめて理念や思想を共有してほしい」
「全国の子ども食堂を見ていても、温かい食事、献身的な交流、福祉的支援は、市民の主体性・自発性に支えられている」
「赤字や持ち出しでも実施するのだという熱意に動かされている子ども食堂もある」
「これらと比較するのは申し訳ないが、(引用者注:「ファミマこども食堂」には)あまりにも『子ども食堂』から逸脱したものしかイメージできない」

 藤田によれば、「子ども食堂」は、市民の主体性や自発性や熱意に支えられている。そこには、手作りの温かい食事が提供され、運営スタッフや他の参加者との交流がある。しかし「ファミマこども食堂」は、その理念や思想を共有することなく、「子ども食堂」という名称だけを簒奪している。以上が、赤木や藤田による批判の骨子であろう。

 私は、「正論かも」と感じる一方で、モヤモヤする。「子ども食堂」を、主体性や自発性や熱意に支えられ、ときに赤字でも持ち出しでも地域の子どものために実施するものであると述べる時、藤田は「動員」という用語を思い浮かべないのだろうか。「動員」は、戦時下日本の「国家総動員」に限られた用語ではなく、社会運動論でも広く用いられている。自発的な献身は、国家による都合のよい動員と紙一重の危うさを持っているのではないだろうか。市民ならば問題なく、企業だから問題があるという価値判断は、無条件に正当と言えるだろうか?

 私自身も、諸手を挙げて気持ちよく「ファミマこども食堂」を称賛する気にはなれない。特に、人気の惣菜シリーズ「お母さん食堂」の名称は、ジェンダーの視点から、どうにかして頂きたいと思う。その一方で、一企業の問題提起とチャレンジとして、一定の評価は可能ではないかと思う。

 とはいえ、ファミリーマートが直接実施する必要があるのだろうか? 藤田も前述のネット記事で指摘していることだが、ファミリーマートが前面に出ない間接支援でも良かったのではないだろうか。形態の一つとしては、地域の「子ども食堂」を行っている団体や行おうと考えている団体に対してファミリーマートが資金を提供する、通常のフィランソロピーに近いものが考えられる。ニーズに応じて、人手やノウハウの提供が行われても良いかもしれない(コンビニの労働環境の問題については、ここでは言及しない)。ファミリーマートが運営に際して「カネは出すし人手も貸すけれど、とやかく言わない」というスタンスを徹底させ、子どもたちが成長した後に「あれはファミマだったの?」と気づくような形態こそ、最高に素敵だと思う。しかし、ファミリーマートは異なる選択をした。

「子ども食堂」は、最初から拡散を運命づけられていた 

 意味に注目すると、「子ども食堂」という用語そのものが、最初から定義の拡散を運命づけられているのではないだろうか。「子ども」と「食堂」という、明確に定義することの困難な一般名詞を2つ組み合わせた「子ども食堂」を定義することは、不可能だ。

 「子ども食堂」という用語が悪用される可能性もある。最悪の可能性としては、ペドフィリアが子どもを呼び寄せる罠としての「子ども食堂」、JCビジネスやJKビジネスの最初の一歩としての「子ども食堂」もありうる。もしも「子ども食堂」を商標登録できれば、このような悪用への一定の対策となるかもしれない。しかし、一般名詞やその組み合わせは、基本的に商標登録できない。「青」「空」「青空」を商標登録して、カラーペンのメーカーや天気予報番組の製作者に商標使用料を請求することはできないのと同様、「子ども」「食堂」「子ども食堂」の商標登録には無理がある。「子ども食堂」自体が一般名詞化してしまっている現在となっては、「子ども食堂」という名称の使用に商標化で歯止めをかけることは、今後とも不可能だろう。

 いったい「子ども食堂」とは何なのだろうか。現在の日本の多くの人々は、「子どもが1人で食べに来ることもできる会食の場」という説明に納得するだろう。では、「子ども」とは誰なのだろうか。「食堂」とは何なのだろうか。「子ども食堂」を運営する人々や訪れる人々は、何を期待されているのだろうか。望ましい「子ども食堂」像や、望ましい「子ども食堂」来訪者像は、明確にされているわけではない。しかし、迷惑行為や暴力の止まない来訪者は、「子ども」であっても出入りを制約せざるを得なくなるだろう。その時、「子ども食堂」の「子ども」は、すべての「子ども」ではなく、一定の資格を満たした「子ども」となる。

 「子ども食堂」は、意味としても事実としても、あまりにも曖昧で、曖昧さゆえに拡散しつづけている。多様性の根源ともなってきた曖昧さを、一概に否定するわけにはいかないだろう。しかし、「子ども食堂」を名乗っているものの「子ども食堂」では“ない”例を、明確に示すことはできない。すなわち、どのような「子ども食堂」が出現しても、「これは『子ども食堂』ではない」とは言い切りにくいことになる。

 私は「子ども食堂」の機能について考えたり著述したりしようとするたびに、なんとも悩ましく、居心地悪くなる。「子ども食堂」という名称のせいだ。

 2018年4月時点で、日本には2000以上の「子ども食堂」が存在していた。現在はさらに増加しているであろう。そのうち相当数は、行政・町内会その他の既存のコミュニティ団体・寺院や宗教団体などと関係しながら、地域に根付いている。好意的に見れば地域資源の活用であり、懐疑的にみれば「しがらみ」の強化である。

 「子ども食堂」現象と現状について、私は否定も肯定もしない。とにもかくにも、経緯と現在のありようという事実からスタートしないと、何も始まらないからだ。事実としての「子ども食堂」を振り返ってみると、何かが見えてくるかもしれない。

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