妄想食堂「食べたいものが分からずに、スーパーを彷徨う『私』の輪郭」

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 買い物かごを手に提げ、深夜のスーパーマーケットをあてどなく彷徨う。目をしぱしぱさせる蛍光灯の光。耳に刺さる店内のBGM。食欲と購買意欲を誘う装いの、ありとあらゆる食べ物たち。こんなにもたくさんの食べ物があふれているのに、店内を何周しても、かごの中身は空のままだった。

 無性に泣きたくなって、喉の奥が引きつる。食べたいものが見つからない。ただそれだけのことなのに、どうしてこんなに心もとない気持ちになるのだろう。

 こういう日は定期的に訪れる。場所はスーパーだったりコンビニだったりファミレスだったりするけれども、だいたいがひどく疲れているときだ。商品の並んだ棚やメニューの表を眺めても、目が滑るばかりで何も読み取れない。周囲の雑音が耳につくのに、そこから意味を抽出することがどうしてもできない。五感のすべてにピントが合っていない気がする。

 ぼうっとして、自分が一体何を欲しがっているのかが分からなくなる。欲望をそそるはずのものたちが、そろって私の体を素通りしていく。だけどその場所から離れる気にはなれなくて、惰性でいつまでも彷徨を続けてしまう。地縛霊にでもなったような気分だ。早く食べたいものを見つけて成仏したい、と思う。

 「何を食べているか言ってみたまえ。君がどのような人間であるか言い当ててみせよう」。ブリヤ=サヴァランも『美味礼讃』の中でこう述べている。ならば、食べたいものが分からない私は、自分がどのような人間であるかをも見失っているということではないか。欲求の形が分からないというのは、自分自身の形が分からないということ。体をなくしてお化けになったみたいに、自分の輪郭がぼやけて有耶無耶になっていく。だからこんなにも悲しく、心細いのかもしれない。

 何も選ぶことができず、途方に暮れて店を出る。何でも構わないからお腹に入れたほうがいい。それは分かっている。でもできない。自分には、自分のためにその何かを選ぶだけの力すらない。霧のようにつかみどころのない食欲だけでは。ぼやけた体を引きずって家に帰る。こんなとき、私に何かを食べさせるものがあるとすれば。それは私自身ではない、ほかの誰かの欲求だ。

 たとえば、同じ家に住む人が「食べられそうなら食べてね」と半分だけ取り置いてくれたお惣菜。ツイッターに吐き出した「食欲がない」という投稿に飛んでくる「甘いもの一口でいいから食べなよ」というリプライ。先週の自分が「これも買っておこう」とかごに放り込んだインスタント食品を見つけたりもする。どれも、現在の私が心から「食べたい」と思うものではない。

 それでも、せっかく用意してもらったから。せっかく言ってもらったから。せっかく買っておいたんだから。決して積極的ではないかもしれないけれど、さまざまな「せっかく」が私の口を開かせる。その一口が呼び水になって箸が進むこともあれば、最後まで苦行のように口を動かすこともある。途中で嫌気がさして投げ出してしまうことだって。それでも、私はこの一口を食べたのだ。私の「食べたい」だけでは食べられなかったものが、他人の「食べてほしい」によって食べられるようになる。さっきよりも、自分の輪郭がはっきりしてきた気がする。

 一生を自分のためだけに生きるのが難しいのと同じように、自分の内にある欲求だけでは、やっていくのが難しい一日もある。自分の有耶無耶な食欲だけでは食べられない日。それでも、ともに暮らす誰か、遠く離れた場所にいる誰か、あるいは過去の自分、そうした外部の「食べてほしい」という欲求によって、また彼らに差し出された食べ物たちによって、輪郭を形作られることはあるかもしれない。

 別に心からそうしたいと思わなくても、心からそれを嬉しいと思わなくてもいい。ただ曖昧な顔で、消極的な「せっかく」を受け入れるだけ。それでいいのだ。その一口が、今日の私を作ってくれる。食べたいものはまだ見つからない。明日のことは、またそのときに考えればいい。

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