人種差別映画:甘い『グリーンブック』と、痛みのスパイク・リー監督作『ブラック・クランズマン』『ドゥ・ザ・ライト・シング』

文=堂本かおる

社会 2019.04.04 20:05

衝撃作『ドゥ・ザ・ライト・シング』のリアリティ

 本稿では以下、リー監督が今年の作品賞を逃した『ブラック・クランズマン』ではなく、同作の源流であり、今年上映30周年記念のイヴェントもおこなわれる永遠の衝撃作『ドゥ・ザ・ライト・シング』を『グリーンブック』と比較する。

(以下、あらすじを知りたくない方は読まないでください)

 『ドゥ・ザ・ライト・シング』はニューヨークのブルックリンにある黒人地区ベッドスタイヴサントを舞台としている。主人公はリー監督自身が演じる怠け者の黒人青年ムーキーだ。ムーキーは自宅近所のピザ屋で配達をし、1週間に250ドルを得ている。1カ月で1,000ドルの計算だ。したがって自宅といっても妹のアパートへの居候。近所に恋人とまだ幼い子供が住んでいるが、養育費もろくに払っていない。

 通称ベッドスタイと呼ばれるこの街にはムーキーの他にも個性あふれる人々が住んでいる。巨大なラジカセを爆音で鳴らしながら闊歩する巨体の青年、極端な黒人主義者、いつも酔っ払っているのになぜか愛され、”市長”と呼ばれる老人、マルコムXとキング牧師の写真を売り歩く吃音の青年、地域のお目付け役の女性、歩道に椅子を持ち出し、日がな喋り続ける無職の中年男たち……まさに町、地域、コミュニティだ。

 この街には他の人種もいる。ムーキーの恋人はプエルトリコ系(ラティーノ)だ。小さな食料品屋のオーナーは若い韓国移民の夫婦。パトロール警官は白人とラティーノのコンビ。何よりムーキーが働くピザ屋はイタリア系白人の経営だ。オーナーは同じブルックリンにあるイタリア人街からベッドスタイに毎日、車でやってくる。ここで25年もピザを焼き続け、街の黒人たちを知り尽くしている。

 一見、なにごともなく思えるベッドスタイだが、水面下には人種間の緊張が常にあった。なぜ黒人は職を得られず貧しいのか。なぜ白人警官は黒人を見下すのか。なぜラティーノはいつまでたってもスペイン語を話し続けるのか。なぜ「昨日、難民ボートでやってきたばかり」で「英語も話せない」韓国人が店をやっているのか。一方、他の人種もそれぞれに不満を抱えていた。

黒人とアジア系の摩擦のシーン「英語を喋れ!」

 夏のある日、ニューヨークは熱波に襲われ、クーラーなど持たない住人たちは暑さに喘ぎ苛立ちを募らせた。ベッドスタイでは長年の緊張がついに爆発し、暴動となった。驚き、怒り、悲しみを経て、呆然とする人々。しかし、一夜明けると街は日常に戻る。昨夜は死人も出たが、人は何があっても生きていくものだ。人種問題をどう解決すればいいのか、そんなことは誰にも分からない。

 これが多人種社会のリアリティだ。ところが『グリーンブック』は、双方満面の笑顔で幕を閉じる。

黒人とイタリア系の軋轢

 『グリーンブック』の冒頭、イタリア系のトニーが生理的な黒人嫌悪を見せるシーンがある。これほど黒人を忌み嫌う白人が、金のためとはいえ黒人のお抱え運転手になることを承諾したのである。しかも自分は白人なのに労働者階級、相手の黒人は博士号を持ち、ミステリアスな高級マンションに暮らす金持ちピアニストだ。この逆転現象をトニーのような人物が、一体どのように受け入れたのだろうか。そこは詳しくは描かれていない。それでもトニーがそもそもは気の良い人間であることは、演じるヴィゴ・モーテンセンの演技力により、よく表されている。だが、当時の黒人嫌悪は白人側の個々人の人格とは別の次元の現象なのである。

 ドクター・シャーリーを演じるマハーシャラ・アリも素晴らしい俳優であり、二人の間には見事なケミストリーが生まれる。音楽とユーモアも非常に気の利いたスパイスだ。

 8週間の南部コンサートツアーを終えたドクター・シャーリーとトニーはニューヨークに戻る。ドクター・シャーリーはマンハッタンにあるカーネギーホールの上階にある高級マンション、トニーはブロンクスのイタリア人街の自宅だ。トニーとの旅の後の孤独に耐えられなくなったドクター・シャーリーはトニー宅を訪れる。クリスマスでトニー宅に集まっていた親戚たちは、一瞬の沈黙の後にドクター・シャーリーを大歓迎する。だが、実はつい先ほどまで黒人蔑視を口にしていたのである。

 当時、イタリア系は白人の中のヒエラルキーでは下位に置かれていた。トニーも南部で白人警官からイタリア系であることを侮辱される。人間は下をみて安堵を覚える生き物ゆえ、イタリア系の黒人蔑視はひどかった。そのイタリア系の親戚が、つい先ほどまで黒人を見下していた者が、ドクター・シャーリーを見た途端に、まるでファミリーであるかのように迎えるのである。『グリーンブック』の非現実性が、ここにある。

 一方、『ドゥ・ザ・ライト・シング』のラストシーンでは黒人のムーキーと、イタリア系のピザ屋のオーナーがいがみ合う。だが、罵り合いの後に双方がお互いを思いやるささやかな言葉を無意識に発する。そして、背を向けて別れていく。

 暴動の果てに、殺人の果てに、小さな希望が見出せた瞬間だった。

過去から未来へ〜『ドゥ・ザ・ライト・シング』30周年の夏!

 『ドゥ・ザ・ライト・シング』は1989年の夏に公開された。当時はまだ無名だったサミュエル・L・ジャクソンもラヴ・ダディという名のDJ役で出演している。DJキャラクターが登場することからも分かるように、『ドゥ・ザ・ライト・シング』にとって音楽、ダンス、黒人特有の会話術、ファッション、そしてユーモアは欠かせない要素だ。それらと人種問題という重いテーマが見事に一つとなり、ポップさと社会性が無理なく折り合うことを証明した映画でもある。

 同作は現実の暴動の予告ともなった。本作の公開3年後の1992年にロスアンジェルスでLA暴動が起こった。原因は白人から黒人への差別、抑圧、警察暴力だったが、行き場のない黒人の怒りは地元の韓国人商店へ向けられたのだった。

 今年6月、映画の舞台となり、実際にロケもおこなわれたブルックリンのベッドスタイで『ドゥ・ザ・ライト・シング』30周年記念のブロック・パーティが開催される。30年を経てもまったく古びないリズム、フレッシュさ、衝撃性。かつ、この作品のヒットが後続の若い黒人映画監督のハリウッド進出の契機にもなった。リー監督無くして現在のブラックムーヴィーの隆盛はあり得なかったのである。

 ロケ地となった通りには4年前、ニューヨーク市の承認を得て「Do The Right Thing Way」の標識が掲げ挙げられている。ブロック・パーティにはスパイク・リー監督ももちろんやってくる。オバマ夫妻のように、この作品に衝撃を受けた世代が子連れで来るだろう。映画公開時にはまだ生まれてもいなかった20代の若者たちもやってくるだろう。『ブラック・クランズマン』と同様、アカデミー賞のもっとも誉れ高い作品賞は逃したが、『ドゥ・ザ・ライト・シング』が映画史上に残る作品であることは間違いないのである。
(堂本かおる)

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