宮藤官九郎の告白に見る、悪意に満ちたニュースコメントと「悪意を回避するためのコンプライアンス」

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 宮藤官九郎は現在、TBSラジオで4月から始まった新しい帯番組『ACTION』の月曜日パーソナリティーを務めている。この番組での発言がネットニュースになり、Yahoo! ニュースのコメント欄やSNSで好き放題書かれることもあるだろう。

 それらを目にすることはクリエイターにとってなんらポジティブなものをもたらさないことは明らかだ。なかには、彼の書いた作品や、番組での発言をしっかりと見たり聞いたりしたうえで真摯に評論する言葉もあるかもしれないが、そうではない誹謗中傷が圧倒的多数を占めているのは間違いない事実だ。安室奈美恵も引退前にインタビューでデジタルデトックスを行っていると明言したことがある。

 宮藤官九郎は「ネットニュースのネタになってしまう」ことを恐れて言葉を選ぶ風潮に違和感を覚え、<ネットニュースを恐れて面白いこと言えないなんて本末転倒>だから、「一切見ない」。それでいいのだと思う。

過剰なコンプライアンス遵守はなぜもたらされたのか?

 そんな宮藤官九郎のコラムは、もうひとつ、重要な「メディアの変化」を示している。象徴的な例として挙げられているのは、3月に相次いで亡くなった内田裕也と萩原健一に関する報道のあり方だ。

 彼らの訃報に際し、ワイドショーのコメンテーターたちはその業績を素直に評価せず、必ず生前に残したスキャンダルや逮捕歴に「こういうことは許されないこと」と触れながら、「それでも格好良かった」といったまとめ方をしている。これは、「素直に彼らの業績を認めれば、犯罪行為を肯定していると思われ、ネットで叩かれるのではないか」という恐れから起きていることだと思われる。

 宮藤官九郎は<そんなに念を押さなくても。そこまで僕らバカじゃないですよ>と綴るが、しかし我々は実際、そこまでバカなのだ。素直に故人の功績を認めれば、その模様を文字にしたネットニュースに「犯罪を肯定するのか!」というコメントがつくことは、ほぼ間違いない。そんな悪意の評判を真に受けて自粛するメディアも、コメンテーターも、またバカなのかもしれない。

 ただし、インターネットは「同じ価値観を持たない人たち」を可視化しており、それ自体は悪いことばかりではないだろう。同じ共同体に所属する市民として、同じような価値観で笑い、泣き、怒るのが当たり前だとされていた時代は、メディアの表現も乱暴だった。その表現によって傷つき虐げられる誰かの存在は、軽んじられていたと言っていいだろう。

 価値観を共有していない人たち、立場の異なる人たちも見ているのだ、という事実に、どれだけ自覚的になれるか。過剰に自粛しまくる“コンプライアンス”ではなく、丁寧に言葉を尽くして説明する“コンプライアンス”が、今メディアには必要なのではないだろうか。

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