変えるべきは「表現」ではなく「実態」。これからの社会に必要な組織の多様性

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自らの首を締める「ソフト検閲」 

  いうまでもないが、表現の自由は憲法上の重要な権利のひとつではあるものの、どんな表現でも何のお咎めもなく許容されるというわけではない。特定の個人などをあげつらえば名誉棄損や侮辱罪にあたるケースもあろうし、集団などに対してもヘイトスピーチにあたるようなものは規制されている。

 それ以外にも著作権法や不当競争防止法など、一定の表現に対して制限を加える法令は少なくない。とはいえ、表現の自由は大きくいえば民主主義の根幹をなす重要な原理でもある。簡単に制限してよいものではない。この問題に関していえば、その表現に具体的な危険性や害があるかどうか、好まない表現に触れずに済む機会が確保されているかなど、表現規制の前に考えるべき要素はいくつかあろう。

 もちろん、「表現を規制せよ」という表現も自由ではある。女性たちが「この表現は気に入らない」と声を上げること自体を否定するものではない。しかしそれは「表現を規制するな」という表現の自由を制約するものであってはならない。

 その意味で個人的により深刻な問題だと思うのは、表現としていったん公表しながら批判が寄せられるとあっさり引っ込めるといった企業やメディアの態度だ。少なくともこの領域では、どのような表現が批判を呼びやすいか、おおまかにはわかるはずで、つまり刺激的な表現はそうであるとわかった上で公表されたに違いないからだ。

 ならば批判もあらかじめ予想しておくべきで、ちょっと批判を受けたからとすぐに引っ込めるような態度は実に潔くないばかりか、自粛と萎縮を当然とする風潮を助長し、さらに異なる考えの人々の不要な反発を招く。

 法ではないが事実上の規制として働くルールを「ソフトロー」と呼ぶが、それになぞらえれば、これは「ソフト検閲」とも呼ぶべきものだ。この問題に限らず、企業などによる事実上の検閲は現代社会において真剣に議論されるべきテーマではないかと考えるが、こうした「ソフト検閲」をわざわざ助長するような態度を情報発信者やメディアがとることは自らの首を絞めるようなものだ。

 批判に耐え、かつターゲットに刺さる表現を発信していくためにはどうするか? 答えは、ふだんから多様性を意識した組織づくりと運営を行うことだろう。多様性のある組織から多様なターゲットに向けた多様な表現がなされていれば、その1つ1つに対して批判が起きても、全体としてのバランスがとれている、と反論ができる。不毛かつ効果の薄い「表現狩り」に邁進する社会よりよほど健全だと思う。

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