いま、ポップ・カルチャーではフェミニズムを感じるものが多い。まずはファッション界に目を向けてみよう。グッチのクリエイティヴ・ディレクターを務めるアレッサンドロ・ミケーレが発表した2018年秋冬コレクションは、フェミニズムやジェンダーの観点からテクノロジーを考察するダナ・ハラウェイの論文、『サイボーグ宣言(A Cyborg Manifesto)』がインスピレーション源だ。ディオール初の女性アーティスティック・ディレクターであるマリア・グラツィア・キウリのように、“We Should All Be Feminists”と書かれたTシャツを制作する者もいる。
映画界では、女性参政権運動について描いた『サフラジェット(邦題 : 未来を花束にして)』(2015)が作られ、ジェニファー・ローレンスは男優と女優の間にある賃金格差に言及したエッセイを執筆している。ウィメンズ・マーチでスピーチしたヴィオラ・デイヴィスやナタリー・ポートマンなど、より直接的な行動を取る者も多い。こうした動きを受けて、ベネディクト・カンバーバッチが『Radio Times』のインタヴューで共演女優と同じギャラでないと出演契約を結ばないと述べるなど、男性側からも具体的なアクションが出てきた。
音楽界に目をやると、ビヨンセの存在が際立つ。MTVヴィデオ・ミュージック・アウォード2014におけるパフォーマンスで、スクリーンに「FEMINIST」という言葉を掲げたのだ。シスターフッドを促す「Formation」もそうだが、彼女はストレートに想いを伝えている。グローバルな隆盛を迎えるK-POPでも、サウスチャイナ・モーニング・ポストがフェミニストアイコンとしての可能性を見いだすアイリーン(レッド・ヴェルヴェット)など、興味深い存在が多い。
ファイティングポーズを避ける日本
こうした波は日本の音楽界にも及んでいる。その象徴と言えるのがCHAIだ。双子のマナ(ヴォーカル/キーボード)とカナ(ギター)に、ユウキ(ベース)とユナ(ドラム)をくわえた4人組バンドである彼女たちは、セルフ・エンパワーメント的な言葉を歌うことが多い。たとえば、ブロンディーの「Heart Of Glass」に通じるメロウなニュー・ウェイヴ・ディスコ「sayonara complex」では、次のような一節が登場する。
〈飾らない素顔の そういう私を認めてよ〉〈かわいいだけのわたしじゃつまらない〉
これは自分の個性を大切にすることや、その姿勢を受けいれてほしいという願いが滲むものだ。それは“フライド”でも顕著に表れている。
〈ほんのすこし太ったわたし 迎えに行きたいの 愛してあげたいの〉
「フライド」の歌詞は、食べすぎて太ることを気にしたり、そうした悩みの根源であるルッキズム(容貌差別)の眼差しに批判的な姿勢が際立つ。〈ビッグガール ビッグボーイ Oh YES!〉といったフレーズも混ぜることで、女性以外にも届く歌にするなど、言葉選びの巧みさも光る。
フェミニズム・ジェンダーの視点を積極的に打ちだすCHAIだが、戦うことには否定的だ。マナとユウキは後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)との対談において、インタヴューでフェミニズムに言及されることへの戸惑いを吐露したあと、以下のように発言している。
マナ「……戦わなくていいかなぁ。なんか、敵がいる音楽っていうの、あんまり想像できない」
ユウキ「戦うのは、嫌ねぇ」
対談では後藤も戦う姿勢に対して一定の距離を置く発言をしている。こうした姿勢は日本において決して珍しいものではない。たとえば、コムアイ(水曜日のカンパネラ)がフェミニズムを語った朝日新聞の記事「男性に敵意むき出しせずに」も、やはり露骨なファイティング・ポーズを避けている。
過去の挫折から生まれた「怒り」
そのような状況は、海外の音楽を聴いている者からすれば奇妙に映るかもしれない。海の向こうには戦う姿勢を隠さないアーティストが多いからだ。先述のビヨンセもそうだが、ここではアリアナ・グランデを例に出そう。かつてアリアナは、ツイッター上でジャーナリストのピアーズ・モーガンから女性差別を受けた際、こう返答している。
また、この騒動の発端となり、ピアーズから攻撃されたリトル・ミックスへのエールでも、戦うことを推奨している。
「戦う歌姫たち、これからも戦いつづけて。あなたたちの姉妹がついてる」(筆者訳)
こうした温度差が生まれてしまうのは、日本と海外では共有されている文脈が異なるなど、さまざまな要因が考えられる。たとえば海外では、1990年代に新たな女の子(girl)像を打ちだし、ポップ・カルチャーとフェミニズムを積極的に交差させた有力ティーン雑誌『Sassy』が、脱政治化され過剰な消費文化に取りこまれたという挫折がある程度共有されている。『How Sassy Changed My Life』を出版したカラ・ジェセラとマリサ・メルツァーなど、『Sassy』に言及する者はいまも後を絶たない。さらに、タヴィ・ゲヴィンソンがWebマガジン『Rookie』を立ちあげた際には、『Sassy』との類似性を指摘する記事がNYタイムズに掲載されたこともあった(そもそも、『Rookie』はタヴィと『Sassy』の元編集長ジェーン・プラットが共同で制作する予定だった雑誌のアイディアが出発点だ)。
これらの継承と振りかえりをふまえれば、ポップ・カルチャーとフェミニズムが再び密接となった現在において、戦う姿勢や怒りを表すことへの理解を示す者が多いのも頷けるだろう。いわば昨今のポップ・カルチャーとフェミニズムの交差は、過去に受けた仕打ちの雪辱を果たすための戦いでもあるのだ。そのような視座が、日本の音楽とフェミニズムの交差には足りないと感じる。
戦いはじめた/戦っていたアーティスト
とはいえ、日本にも戦うことを公言するアーティストはいる。なかでも興味深いのはA.Y.Aだ。2012年から作品をコンスタントにリリースしてきた彼女は、多彩なサウンドを紡ぐ。R&Bを下地にしつつ、ヒップホップ、ベース・ミュージック、ロックなど多くの要素を上手く接合しているのだ。そんな彼女の発言は実に明快である。
この姿勢は音楽でも顕著だ。自ら解説するように、「Weekend Lover」では旧態依然な恋愛観に疑問を呈したりと、率直な心情を表現してみせる。
A.Y.A以外にも、日本のヒップホップ・シーンのミソジニーを示したラッパーの椿や、フェミニスト宣言も記憶に新しいあっこゴリラなど、明確なフェミニズム意識を持ったアーティストは増えてきている。より議論を活発にするためにも、これらの動きは歓迎すべきものだろう。
日本における音楽とフェミニズムの交差は、海外の動きの影響が強いと思われる。だからこそA.Y.Aは、海外のフェミニストアイコンへの親愛を示したうえで、日本の状況に対する不満を述べたのだろう。しかし過去に遡れば、明確なフェミニズム意識を持った動き、あるいはフェミニズムを感じる曲は日本でも生まれていたのがわかる。
たとえば、アニメ『らんま1/2』のエンディング・テーマ「プレゼント」でも知られる東京少年が1988年に発表した曲で、その名もズバリ「性差別」というのがある。ドイツのニュー・ウェイヴ・バンド、プロパガンダに通じるサウンドをバックに、男女差別が蔓延る現実を痛烈に批判する内容だ。〈上っ面だけの雇用機会均等法〉といった一節は時代を感じるが(男女雇用機会均等法は1986年に執行された)、男はこうで女はこうという根強い性役割に向けられる怒りは、現在の状況とも重なる。30年近く経ってもほとんど状況は変わってないという失望も抱いてしまうが、フェミニズムの観点から日本の音楽を考えるうえでは重要な曲と言える。
他にも、ウーマン・リブ雑誌『女・エロス』に「わたしはかけだしのつなわたり」という詩を寄稿した中山ラビ、小倉千加子がフェミニズムの観点から評価する松田聖子、舌津智之がフェミニズム批評の可能性を見いだす山本リンダなど、数は少ないが興味深いアーティストは存在する。
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