社会

「共助」の期待が生み出すジレンマ 「市民の助け合い」というストーリーが、「公助」の減衰を導く

【この記事のキーワード】

「共助」が頑張れば「公助」が細るというジレンマの中で

 社会保障改革推進法の第二条に規定された枠組が存在する以上、「私」の自助と「公」の公助の間にあるすべての活動は、「コミュニティ」による共助として位置づけられる宿命にある。それは「家族相互および国民相互の助け合い」であり、納税者の立場に立ち、納税者の負荷を増大させないように配慮しつつ行う活動であり、公的保険であり、余裕がある人もない人も公平に負担を分かち合う活動である。既に、日本のすべての制度が、この路線に沿って再編されつつある。逃れたくても、日本の中ではどうにもならない。出来るのはせいぜい、「家族相互の助け合いは、“自助”でしょ?」と、重箱の隅をつつくように正論を口にしてみるテスト、程度だ。

 余裕があるわけではない「自助」が、さらなる「共助」に乗り出せば、自分たちが辛うじて立っている基盤を掘り崩すことになってしまうかもしれない。だから「保険」という考え方、「自分と家族のためなのだ」という論理が必要になる。脆弱な「共助」の経済的基盤が問題なのなら、ファミリーマートのような大企業に乗り出して来てもらえば解決する。少なくとも、短期的なソロバン勘定では、そうなる。

 それでも、今、目の前の1人の子どもの貧困を解消することが何よりも大切なのなら、自分のカネ・時間・エネルギーを、待ったなしで投入するしかない。子どもは、貧困や虐待などによるネガティブな影響を受けやすいが、ポジティブな方向への変化もしやすい。成果は、顔色や健康状態や学校での行動や学業成績などの形で目に見えやすく、その影響は生涯に渡って続く。」心ある人々や団体は、ときに共倒れになりかけながら、「だからこそ、今」と取り組みを続けている。そしてジレンマに苦しむ。自分たちが必死になり、貧困の中で苦しむ子どもの状況を少しでも解消する結果を積み重ねていけばいくほど、「それでは、公助は必要ありませんね?」と、さらなる公助の衰退を招くだろう。しかし、今、眼の前の子どもに何もしないことが出来るだろうか? それは出来ない。だから、ジレンマに苦しみながら、我が身を削りながら、「いつまで続けられるだろうか?」と悩みながら、取り組み続けている。

 厳しい状況にある子どもたちを支えようとする人々を、子どもたちとともに見殺しにするわけには行かないだろう。見殺しにしないために必要なのは、他ならぬ「公助」である。しかし、その「公」は、自らの責任から全速力で逃げ去ろうとしている。

「共助」は、「公助」と「自助」の減退を救う鍵なのか?

 2019年3月21日、社会活動家の湯浅誠は、「みんなの介護」編集部のインタビュー(https://www.minnanokaigo.com/news/special/makotoyuasa3/)に応えて、共助の重要さを強調した。なお、「子ども食堂」ムーブメントの立役者として広く知られる湯浅は、2009年10月~2010年3月、および2010年5月~2012年3月の通算2年5か月、民主党政権下で内閣府参与を務めていたが、「税と社会保障の一体改革法」が成立した2012年8月時点では、政権に参画していなかった。

 自助・共助・公助のベストミックスの必要性を語る湯浅に、「みんなの介護」編集部は「『自助』と『公助』については、あまり期待できませんしね」と水を向ける。「おっしゃる通り」と答える湯浅は、さらに、少子高齢化問題を抱えた日本で個人の収入向上は見込めないため「自助」に期待できず、国や地方自治体の財政も困難にひんしているため手厚い社会保障を前提にする福祉国家モデルを追求できず、「結局のところ、頑張れそうなところは『共助』の部分」であるという。湯浅によれば、「共助」は病気の際の貯金のように、人を外界から守るバリアのような“溜め”の機能を発揮する。“溜め”とは、結局のところは人のつながりであり、多くの人がコミュニティに参加することによって“溜め”が生み出される。

 とはいえ、人間関係やコミュニティのアウトカム(効果)測定は、決して容易ではない。必ずしも、明確かつ反論されにくい金額のような数値で評価できるとは限らない。湯浅はこの点についても、「『人がワイワイ集まったところで何がプラスになるんだ』と批判する人には、その価値がなかなか見えにくい」「地域で住民交流が活発に行われているところでは、医療や介護などの社会コストが下がるというデータが、最近、少しずつ出始めています」と反論する。そして、「『いくら儲かったか?』だけに注目するのではなく、それまでかかっていた社会コストを『いくら減額できたか?』ということも見ていくことが『共助』の力を生かすためには重要なのです」と強調する。さらに湯浅は「子ども食堂」について、「人と人とのつながりが、物事を前進させる推進力になるんです」「(子ども食堂の増加は)子どもをハブにした地域交流というモデルがいろいろな地域で成功しているからです」と述べる。

 私は、深いモヤモヤ感を抱いてしまう。モヤモヤ感というよりグログロ感、より正確に言えば「疑心暗鬼」だ。

 “黒字“の増大と”赤字“の減少は、”黒字“の増大を好ましいものとする評価軸に照らせば、子どもの小遣い帳から企業の決算書まで、常識以前の話だろう。とはいえ、”赤字”を減少させる努力が好ましい成果に結びつくとすれば、現在や近未来の“黒字”“トントン”の見通しがある場合ではないだろうか。もしも、“黒字”も“トントン”も期待できないのに“赤字”削減を強いられるとすれば、戦時中の「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」そのものである。

 そして、湯浅が好ましいものとして評価するのは、「医療や介護など」の「社会コスト」の減少である。そこには、前提以前の前提として、「医療や介護は必要としないことが好ましい」という価値観が存在している。苦痛が少なく健康であり、介護者に気を使わずに生活できることは、多くの人々にとって、無条件に好ましいものであるかもしれない。では、ALSや筋ジストロフィー症のような難病を患いながら、24時間の介護を受け、場合によっては数十年にわたって生き続ける人々は、社会に「社会コスト」を強いる存在なのだろうか?

許される「社会コスト」と許されない「社会コスト」は、区分できるのか?

 もしも私に、湯浅と議論する機会が与えられたとしても、応じようとは思わない。議論が噛み合う可能性は薄い。「見解の相違」で終わらせておくことが唯一の可能性だと感じる。しかし湯浅の主張のうち、「公共にお金がないから『公助』に期待すべきではない」と「社会コストを減らすことは望ましい」の2点については、疑問を呈しておきたい。

 「国にも地方自治体にもお金がないから『公助』には期待できない」という前提は、自明のものではない。本当に「公共にはお金がない」のなら、増税すればよい。そしてそれは、仮定ではなく、2019年10月から予定されている現実だ。とはいえ2019年4月末現在、景気や国会総選挙への悪影響という観点から、消費増税の延期が取り沙汰されている。消費税には逆進性という問題があるため、増税すれば低所得層を集中的に痛めつけてしまう上、消費を冷え込ませて景気を悪化させる可能性もある。この問題に正面から取り組むのであれば、富裕層や大企業を対象とした増税を行わざるを得ないだろう。しかし、社会保障改革推進法第二条の四が、社会保障給付の財源を「消費税及び地方消費税の収入」と規定する以上、消費増税以外の増税は「禁じ手」なのだ。

 ともあれ、「社会コストを減らすことは望ましい」とする考え方は、すべての人の居心地、「自分は生きる資格のある存在である」という自己肯定感を切り崩すポテンシャルを持っている。すべての人は、人生のどこかで中途障害者になる可能性を持っている。人生半ばにして、不慮の事故や想定外の疾患によって、中途障害者になるかもしれない。高齢になれば、加齢に伴う身体面や精神面の変化が訪れる。ありふれた感染症に罹れば重症化しやすくなり、治癒までの医療コストは若年の健常者よりも多くなる。認知症を発症すれば、より多くの介護コストを必要とするはずだ。

 若年であっても、職業能力を発揮できる状況にあっても、中途障害者が生きて暮らすために必要な社会コストは、健常者よりも多大だ。では中途障害者は、健常者もいる社会に社会コストを強いる存在なのだろうか? 健常者は、中途障害者に迷惑をかけられているのだろうか?

 湯浅自身は決して、「そうだ」とは言わないだろう。湯浅自身が自分の原点として数多くの場で語っている通り、湯浅には、筋萎縮性の難病を患う身体障害者の兄がいる。湯浅が「みんなの介護」のインタビュー記事の中で語った「社会コスト」の内容は、医療や介護であり、あくまで「(障害者)福祉」は含まれていない。しかし、「社会コスト」が削減されることを好ましいとする価値観の中で、医療および介護を削減すべきものとし、一方で障害者福祉の削減は好ましくないものとして区分しつづけることは、原理的に不可能であるはずだ。

 さらに、「社会コスト」を削減されるべきものとする考え方の自然な延長線上には、「障害者は不幸を生み出す」「障害者は抹殺すべき」という主張がある。障害者は社会にコストを強いるゆえに、社会を不幸にする。この不幸を本質的に消し去るためには、障害者を抹殺する必要がある。極論ではあるが、社会コストが削減すべきものなのなら、その極論を否定することは難しくなる。

 前段落のカッコ内の文言は、2016年7月、神奈川県相模原市の障害者入所施設で入所していた19名の重度障害者を刺殺した元職員が、書簡に記したものである。この元職員に共感する人々は少なくない。善良な普通の市民たちは、容易に「障害者は抹殺されるべき」と考え、ときには実行に参加する。その実例は、ナチス・ドイツを含めて無数に存在する。後で誤りに気づいても、謝罪しても、既に殺されてしまった人々は生き返らない。

 あやまちを冒さない人間は、どこにも存在しない。人々が意識的に、あるいは無意識的に、誰かを「不幸を生み出す」存在として疎外してしまう可能性は、いつでも、どこにでも存在する。しかし、その人を家族や地域コミュニティのすべてが疎外してしまったとしても、公共には、「あなたは生きるに値する存在ですから、生きてください」と言うことができる。言うだけではなく、生きるための費用や人手を確保して提供することができる。公共は、その責任を負っている。だから国民は、イヤイヤながら納税し、責任の遂行を公共に託してきた。今、この根本を放棄するわけには行くまい。

大人の責任―「子ども食堂」の背景と文脈を再構築しよう

 日本のすべての人の人権を守ることに対して根本的な責任を負っているのは、政府をはじめとする公共部門である。他に、責任を負うことのできる存在はないからだ。まずは、政府方針がどうであれ、このことを再確認したい。

 2012年に成立した税と社会保障の一体改革法には、さまざまな形で、「国家責任などない」というメッセージが散りばめられてしまった。この法のもとで、生活保護法を含む数多くの法律が、少しずつ、国家責任を放棄する内容へとスライドしつづけている。

 まず、この流れを止める必要がある。具体的には、流れを止めることのできる政治を選ぶことである。政治を変革し、この暴力的な流れをいったん止め、公共のあるべき姿や国家責任を再確認する必要がある。さらに立法によって、法に明記する必要もあるだろう。目的は、まず、現在進行中の「子どもの貧困」を解消することである。そして遠くない将来、「子どもの」という“冠”をつけずに、日本社会の貧困と格差の解消に取り組むことである。自由選挙制度と言論の自由が一応は存在する2019年の日本なら、まだ、可能かもしれない。

 成り立ちや経緯がどうであれ、「子ども食堂」は良くも悪くも、2019年の日本の既成事実だ。しかし、2012年の「税と社会保障の一体改革法」につながる文脈の中に存在する以上、「子ども食堂」は、子どもたち自身を含む誰かを、居心地悪くモヤモヤとさせる存在でありつづけるだろう。「子ども食堂」を、より多くの人々が、居心地よく気持ちよくスッキリする存在に作り変える必要を、私は感じる。とはいえ、「子ども食堂」そのものの解体や、「子ども食堂」に関わってきた善意の人々への攻撃は不要だ。背景と文脈を再考し、解体し、再構築すれば済む。

 最初の一歩は、「公助に頼らず、共助を」「税金による補助金がダメなら、大企業に寄付してもらえばいい」といった言葉に、疑問を表明してみることだろう。「え? そう? どうして?」と疑問を投げかけることに、それほど大きな勇気は必要ないはずだ。冷笑されたら、顔を少しそむけて、「おかしい? でも、やっぱり分からない」と小声でつぶやけばいい。あるいは、「共助を」「税金ではなく大企業に寄付してもらいやすいように」という意見をSNSで見た時、拡散させるついでにムンク「叫び」の画像を追加してみたり、「たぶん無理。」と一言追加してみたりする選択肢もある。

 あなた自身の「子ども食堂」の再考と解体と再構築なら、スマホの画面の中で、指先一本で、今すぐ始められる。その先には、あなた自身が安心できて、あなた自身のための「共助」が確実に存在すると思える社会の実現があるはずだ。

1 2

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。