
「Getty Images」より
私が「謝罪」についてよく聞かれるのが、着ていく服装や手土産、誰と一緒に謝りに行けばいいのか、頭を下げる角度やその時間などである。
先日、酒に酔って面識のない女性を殴ったとしてAAAのリーダーが逮捕され、謝罪会見をした。髪を黒くし、黒のジャケットと黒のネクタイをし、何度も頭を下げていたのもそういう「謝罪の仕方」である。せっかく美容院か、散髪屋に行き、黒い髪に戻す間があるのなら、バリカンで丸坊主にするという選択肢もあったのに。反省は態度でも示さねばならないのだ。
尋ねられれば「謝罪」という行為の説明やお手伝いはできるのだが、「謝罪」をすればすべてが終わり、必ずしも「ゴール」がやってくるとは限らないといつも伝えている。「ゴール」とは「問題解決」という両者にとっての落とし所である。両者の理解が成立してはじめて問題が解決と言えるのだ。
「謝罪」は「ゴール」に向かうための道具のひとつにすぎない
「怒り」はどこからやって来るのか? それはなんらかのリスクによって相手や自分の心の針がマイナスに振れた時、精神的にへこんで傷つくことに発生するものだ。なかには身体に怪我をさせられ、心身ともに痛む人もいるだろう。
しかし、「謝罪」さえすれば済むと思ってはいないだろうか? 実は「謝罪」は、両者にとっての「ゴール」に向かうための道具のひとつにすぎない。
これは個人間の問題でもそうだし、毎日のようにテレビのワイドショーを賑わす「謝罪」騒動の数々もそうだ。誰もが知る有名な企業や団体、大学のトップや政治家、患者の信頼に応えるはずの病院、ファンに夢を届けるはずのアイドルやアーティストやスポーツ選手が深々と頭を下げて謝罪する姿が映し出されている。これらも同じことである。
挙げればキリがない。ただ量が尋常ではないので、3カ月も経つとテレビ番組の話題にも上らない。次から次にやってくる「謝罪」のお陰で、古いものから忘れられるのである。
ところが忘れ去ってくれるのはなんの関係も持たない一般大衆であって、当事者はそうではないのである。世間の話題やテレビのニュースショーからは忘れ去られても、酔って暴行を受けた当事者の傷ついた体や心は時間が経っても癒やされない。そこで必要な道具が「謝罪」なのである。
「謝罪」は精神的、感情的な解決を目指すものだ。だが、「謝罪」や「謝罪会見」を実施したからといって一件落着し、事態が収束するかというと、さにあらず。精神的・感情的な解決がなければ、至らぬ点が指摘されてさらなる炎上を招いたり、問題がいっそうこじれて謝罪劇場の第二幕が始まってしまったりということも少なくない。