日本にはもっとロルカが必要だ!~「生産性のない」人々の物語『イェルマ』

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『三大悲劇集 血の婚礼 他二篇』(岩波文庫)

 皆さんはフェデリコ・ガルシーア・ロルカをご存じですか? 1920年代から30年代にかけて活躍したスペインの著名な劇作家・詩人ですが、同性愛者で革新的な考えの持ち主であったため、1936年、スペイン内戦の最中にファシストに暗殺されました。三島由紀夫や天本英世がロルカ好きとして知られていたので、以前はかなり知名度の高い作家だったのですが、最近は名前が目に触れる機会が少なくなっているかもしれません。

 ロルカは多数の詩を残した他、『血の婚礼』『イェルマ』『ベルナルダ・アルバの家』という3つの悲劇を書いており、どれも今なお上演される人気作です。ロルカというと生まれ故郷であるアンダルシアの風土に根ざした土着性、象徴性、激しい情熱などがよくとりあげられますが、この記事で私が論じたいのは、ロルカの戯曲はまさに現代日本に生きる人々が今、直面している性や生殖につての抑圧、つまりはいわゆる「生産性」の問題を扱っているということです。とくに『イェルマ』は非常に現代的な視点で性的な抑圧を扱っています。ロルカの戯曲は80年以上前のアンダルシアで起きた神秘的なお話ではなく、21世紀の社会についての物語なのです。

母性に固執するヒロイン、イェルマ

 男にはあたしたちとは違う生活があるわ。羊を飼ったり、果樹の手入れをしたり、仲間うちでやり合ったり。でも、あたしたち女には子供しかない、子供を育てることしかないのよ。(『イェルマ』牛島信明訳、第2幕第2場)

 1934年に初演された『イェルマ』は、スペイン社会を覆うカトリック的、男性中心主義的な性道徳を猛烈に批判した作品です。ヒロインの「イェルマ」という名前はスペイン語で「不毛」であることを意味します。イェルマは夫フアンとの結婚生活がうまくいっておらず、子供さえ生まれれば自分の人生が上向きになると信じて出産に固執していますが、妊娠することができません。追い詰められたイェルマはとうとうフアンを殺してしまいます。

 この作品でイェルマが子供を欲しがるのは、夫との間に愛がなく、日々の生活に張り合いがないからです。イェルマは第1幕第2場で、自分にはかつてビクトルという恋人がいたが、父のすすめでフアンと結婚したと語っています。フアンは仕事ばかりしていて妻に対しては情熱のない夫で、イェルマと一緒に楽しく過ごす時間をとったりはしないし、おそらくは妻のことを性的に満足させていません。

 イェルマはカトリック的な名誉の感覚に縛られており、今でも愛しているビクトルと不倫をするとか、夫と離婚して他のもっと気が合う男と再婚するというようなことはできないと考えています(カトリック教会は離婚を認めていません)。さらに上の引用にあるように、イェルマには男たちがやっているような仕事や自由な友達付き合いも許されていません。仕事も恋愛もできないイェルマには、子供以外に生き甲斐になりそうなものが全くないのです。イェルマは女性を抑圧する社会によって追い込まれています。

 この作品では、イェルマのこうした母性偏重的な考え方は一面的だということをさりげなくほのめかす展開があります。子供を産み育てることが女の幸せだという考え方は社会に根強く存在し、イェルマはそれを完全に内面化していますが、一方で実際の人生はそうはいかないということも示唆されているのです。第1幕第2場では、イェルマが子供を家に置いて外出している女や、結婚や出産をしたがらない女に出会って驚くところがあります。子育てには苦労が伴うということも劇中で何度か指摘されています。

 フアンは「世のなかの女がみな同じってわけじゃあるまい」(第2幕第2場)と言い、養子をとろうとイェルマに持ちかけます。自らの理想と異なるこうした考え方に出会うたびに、イェルマは非難の言葉をあびせ、子供を産み育てることがいかに素晴らしいかを主張します。結婚や出産に関する多様な考え方が提示される中、それを拒んで伝統的な母性に固執するイェルマは、自ら男性中心的な社会の決まりにとらわれていってしまっていると言えます。イェルマは自分で作った罠にどんどん落ちていき、悲劇的な末路をたどることになります。

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