連載

日本にはもっとロルカが必要だ!~「生産性のない」人々の物語『イェルマ』

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フアンの問題

 この芝居が直接的に攻撃しているのは偽善的で硬直した性道徳です。『イェルマ』の世界では父親が娘の結婚を決め、離婚はできず、女性は行動を制限され、情熱に従って自由に愛や性を謳歌することは恥とみなされます。ロルカが挑戦したのはこうしたことを当然と見なす社会のあり方でした。ファシストに嫌われるのも当たり前です。

 そしてもうひとつ、この戯曲を読みとく時に重要なのは、ロルカがゲイだったということです。ロルカは他の作品でも生殖や母性に触れており、生殖の不可能性をテーマとしたこの作品は、ロルカ自身の人生にしばしば結びつけられます。ロルカが生きていた時代のスペインには、同性愛者が養子を引き取って育てるというような選択肢はまずありませんでした。結婚し、子供を生み育てるのが社会的に当然だという圧力は、イェルマのような女性だけではなく、男性にも降りかかるもので、ロルカのような同性愛者にはより強い抑圧となり得ます。

 こうした背景知識をもって『イェルマ』を読むと、おそらくイェルマの夫フアンはゲイなのではないか……という解釈が浮かんできます。フアンはイェルマの不安定な行動が世間の噂になることを心配し、妻の行動を制限しようとするいけ好かない夫です。しかしながら、たまには妻の美貌を褒めたり、好きだと言ったりするなど、イェルマを嫌っているわけではありません。フアンは全く子供を欲しがっておらず、静かな暮らしを望んでいます。イェルマの知り合いの老婆はフアンのような者にとって「子供をつくるというのは天と地をひっつけるようなもの」(第3幕第2場)だと言い、フアンに性的な情熱がないことをほのめかします。

 私が演出家なら、フアンはゲイでイェルマをいわゆる「ビアード」(beard、「ヒゲ」)にしている、という演出にします。「ビアード」というのは英語のスラングで、自分の性的指向を隠すため同性愛者がお付き合いしたり、結婚したりする相手の異性愛者を指します。実際、フアンがゲイだという解釈で『イェルマ』を演出することはあります。この解釈をとると、イェルマもフアンも異性愛男性中心的な社会の被害者だということになり、この悲劇は余計、やりきれない悲惨な物語になります。実際にロルカが暗殺されてしまったことを考えると、そのほうが現実の厳しさに根ざした解釈なのかもしれません。

ロルカ作品の現代的な意味

 ここまで『イェルマ』の解説を読んで、ピンときた方も、あるいは「昔のスペインの田舎は大変だったんだなぁ」と思う方もいるかもしれません。実は『イェルマ』に出てくるスペインの田舎は、21世紀の日本なのです。

 2007年、柳澤伯夫厚生労働相が女性は「産む機械」だと言いました。衆議院議員である杉田水脈が、セクシュアルマイノリティの人々は「生産性がない」という考えを表明し、大問題になったのは昨年のことです。この12年間、日本社会は子供を産まない人間は責任を果たしていないとか、女性は子供を産んで当然だと考えているような人間を国会に送ってきたのです。政治家の失言をとりあげなくても、女性は子供を産んで一人前だとか、同性愛者は子育てができないとか、偏見に満ちた発言をする人は社会にたくさんいます。「生産性のない」イェルマやフアンが悲劇に追い込まれたのは、こうした考えが社会に満ち満ちていたからです。ロルカがボロクソにけなしているのはこうした「生産性」をたてに人々を苦しめる社会そのものです。つまり、ロルカは今生きている私たちのために書いていたのです。

 ロルカは情熱と抵抗の作家です。ロルカの他の作品である『ベルナルダ・アルバの家』や『血の婚礼』などにも、抑圧的な社会に対する抵抗という要素は強く見られます。日本にはもっとロルカが必要だし、私はロルカの上演をもっと頻繁に日本で見たいと思っています。

参考文献

イアン・ギブソン『ロルカ』内田吉彦、本多誠二訳、中央公論社、1997。
フェデリコ・ガルシーア・ロルカ『血の婚礼他二篇』牛島信明訳、岩波文庫、2000(引用は全てこの版に拠る)。

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