デンマークの王子ハムレットは、国王である父が不慮の死を遂げ、王の弟である叔父クローディアス(福井貴一)が母の王妃ガードルード(松雪泰子)と結婚し王位を継いだことを憂う日々。親友ホレイシオ(竪山隼太)から父の亡霊が出ると聞き確かめに行くと、亡霊は、自身の死はクローディアスによるもので彼に復讐をするようハムレットに告げます。
父の死の真相を確かめるべく狂ったふりをするハムレットの変貌ぶりに王夫妻は戸惑いますが、王の顧問官ポローニアス(山崎一)は、王子がおかしくなったのは彼の娘オフィーリアへの実らぬ恋のためだと推察。旅芸人の一座に王の暗殺を再現させた芝居を観せた際のクローディアスの反応から、彼が父を殺したと確信したハムレットは、母との言い合いからポローニアスを殺してしまい、そのせいでオフィーリアは気が狂って、亡くなります。オフィーリアの兄、レアーティーズ(青柳翔)は父と妹の死にハムレットへの憎悪を募らせ、クローディアスの奸計にはまり、ハムレットと決闘することに――。
岡田流、ハムレットの新解釈
シェイクスピアはお芝居の戯曲であると同じくらい、文学作品の研究対象ともなっている作家です。「生きるべきか~」のセリフの深遠さがもたらすイメージもあり、ハムレットは「悩める青年」という印象が強く、行動のミステリアスさから多重人格や統合失調症であるという説、叔父への執拗な復讐心は母ガードルードへ肉親の情を越えた愛欲を抱いているからという解釈も、よく唱えられます。
英文学のフェミニスト批評って、何をやってるの?~『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』刊行に寄せて
ただ座って本を読んでるわけじゃない 今回の連載では、「フェミニスト批評って何をやってるの?」ということについて書いてみたいと思います。宣伝で恐縮です…
岡田の演じるハムレットも確か苦悩をしていましたが、現代日本で生きるなかでのつらさとも地続きに感じられるものでした。それは、とにかく孤独のなかでひとり戦っているということ。家族が殺された悲しみと、義理の弟との再婚で母が近親婚という宗教的タブーを犯したというおののき。彼にとっては「間違っている」のは周囲の世界のほうなのに、それを誰とも共感できず疲弊しやさぐれており、岡田の実年齢よりもかなり老けてみえるほど。でも親友のホレイシオに会った時はパっと声も明るくなり一気に若返って見えたのは、これはひとりの青年が精いっぱい人生を生きている物語なんだと実感できるものでした。
そんな等身大な姿の一方、「気高い心の持ち主」と語られる姿も納得できたのは、オフィーリアへの愛情でした。ハムレットが、恋心を捧げていたはずのオフィーリアへ発する「尼寺へ行け」という言葉は、前述のセリフと同じく『ハムレット』のなかで解釈の分かれる場面です。原作の時代背景では、女性が尼寺へ入ることは俗社会での死と同義であり、主君から家臣への命令と同じもの。愛する女性に対していう言葉ではないはずですが、岡田のハムレットは、現王への復讐を決心した身であり、愛する女性を悲しませないため、そして彼女をも罪に問わせないための宣言に見えました。