DV加害者に必要な対話とは? 暴力的なコミュニケーションを肯定する「男らしさ」の“学び落とし”

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先生、よろしくお願いします!

 男性性にまつわる研究をされている様々な先生に教えを乞いながら、我々男性の課題や問題点について自己省察を交えて考えていく当連載。5人目の先生としてお招きしたのは、ドメスティック・バイオレンスの問題にジェンダーの視点から取り組み、『ドメスティック・バイオレンスと家族の病理』(作品社)などの著書もある立命館大学教授の中村正さんです。

 前編では、直接的な暴行に限らず、束縛や不機嫌な態度によって相手を萎縮させ、縛りつけようとすることも「DV」であると認識を広げたうえで、DVと「男らしさ」の関係を見てきました。では、その「男らしさ」は男性の中でどのように醸成されていくのでしょうか。

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中村正(なかむら・ただし)
1958年生まれ。立命館大学教授。臨床社会学の視点から家族病理や社会病理の問題を研究。家庭内暴力の男性加害者へのサポート行う「男親塾」「メンズサポートルーム」を立ち上げるなど、日本における「加害者問題」の研究・対策に取り組んでいる。著書に『ドメスティック・バイオレンスと家族の病理』(作品社)、『治療的司法の実践』(第一法規)などがある。

暴力と競争と友情が紙一重な男同士の関係性

清田代表(以下、清田) ここまで(前編)、直接的な「殴る」「蹴る」だけでない様々な暴力の在り方や、暴力と「男らしさ」の関係、またDV男性の言い分に見られる暴力加害の「中和化」にまつわるお話をうかがいました。こういった男性の加害性に、男性自ら目を向けることはそれほど簡単なことではないように感じますが、そもそも中村先生は、どういった経緯で暴力と男性性の問題に関わられるようになったのでしょうか?

中村正(以下、中村) 元々は「男性同士の関係性」に抱いていた疑問から始まったものでした。その源流をたどると、小学生の頃までさかのぼります。5年生のときにマサルくんというクラスメイトがいて、彼は背が高くて勉強もスポーツもできて、おまけにいいやつという非の打ちどころがない男子だったんだけど、あるとき児童会の役員を決める選挙みたいなものがあり、私とマサルくんが立候補する流れになったんですね。そしたら彼は「いいよ、正くんにあげる!」と譲ってくれまして……そこで私は敗北感を抱き、彼との関係がなんとなくぎくしゃくしてしまったんです。

清田 ちょっとわかるような気がします。勝手に比べて勝手に負けたような気持ちになってしまうことってありますよね。

中村 嫉妬しちゃったりね(笑)。もちろん当時はジェンダーとかフェミニズムなんてものは知らなかったわけですが、私の中には体験的なレベルで「男同士の付き合いって難しいな」という感覚が芽生えたんです。自分のライフヒストリーを振り返ってみるとそれを感じるシーンは他にもたくさんあって、例えば小さい頃は4歳下の弟を相手に負けるはずのないケンカを繰り返していたり、あと、うちの父親は竹馬とか竹とんぼを作ってくれた自慢のオヤジだったんだけど、そのパワーを借りて友達に「すごいだろ」って自慢ばかりしていたり。

清田 虎の威を借る狐的な(笑)。そう言えば僕も、小学生のときはサッカークラブの先輩の威光を盾に調子に乗りまくっていたような気がします。

中村 また、友達のちんちんがとても気になり始めたり、性的な関心をどう収めていいのか悩んだり、好きな女子を直視できなかったり、そしてモデルでありライバルのような男友達とどう距離を保てばいいのかなど、苦しかった思春期の記憶があります。

 そんなことをいろいろ思い出す中で、「そういった男同士のコミュニケーションの中で知らず知らずの内に刷り込まれていくものとはなんだろう?」という疑問がわいたんです。明確に暴力とは言いにくいんだけど、競争なのか友情なのか暴力なのかよくわからない、まだ名づけられていない領域が、男同士の関係にはあるんじゃないか。暴力とコミュニケーションが紙一重な環境の中で、男子は自己形成をしていくんじゃないか。DVや虐待問題の根底には、そのような男性性の問題があるんじゃないか──。そんなことを考えるようになったんです。

清田 暴力が肯定的に捉えられる環境って確かにありますよね。僕が子どもの頃は「少年ジャンプ」の全盛期で、『ドラゴンボール』のようなバトル漫画や『ろくでなしブルース』のようなヤンキー漫画において、暴力はひどいものというよりむしろカッコいいものとして描かれていたし、中高6年間を過ごした男子校でも、教師からの体罰はわりと日常的に存在していて、しかもそれにビビるのはカッコ悪いという価値観すらありました。

中村 私の時代にも『あしたのジョー』や『巨人の星』といった作品があった。男の人生からすると、暴力って「当たり前に存在しているもの」だったりするんですよね。

清田 僕は19歳のとき、駅で4人組の男たちから暴行被害に遭いました。友達とホームを歩いていたらいきなり「金を出せ」って絡まれて、周囲に人がたくさんいたから大丈夫だろうと思って無視したら、わけもわからないうちにボッコボコにされ、鼻の骨を折られて血だらけになって救急車で運ばれまして……。でも、そのことを“恥”のように思う気持ちが抜けなくて、本当は思い出すたびに動悸がしてくるようなトラウマ体験のはずなのに、「5000円出せって言われて断ったらボコられて、結果的に病院で治療費25000円取られた(笑)」って、周囲には笑えるネタのように話していた時期が長年続きました。

中村 それは大変な経験でしたね……。でも、暴力を受けても「被害」と認められないのも男性に特徴的な傾向なんです。弱音を吐けなかったり、人によっては傷を乗り越えたことを“武勇伝”にしてしまうこともある。そういう中で、男性の暴力被害も見えづらくなっていくわけです。

清田 自分もまさにそんな感じだったと思います。

中村 デボラ・カメロンという言語学者が「ジェンダーは名詞ではなく動詞である」と言っているんだけど、男性にとって「男らしさ」とは行動の指針やシナリオとして機能している。そういった視点を導入しないと暴力の問題は解き得ないのではないかと考え、大学院時代に学んだ「臨床社会学」の立場から暴力と男性性の問題に取り組み始めたというのが今に至る流れです。当時はまだDV防止法も成立していない時代で、それを説明するための言葉が全然なかったので、様々な男性たちの話を聞いたり、自分の内面を掘り下げたりしながらワードを構築していくところからのスタートでした。

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