
「Getty Images」より
エスカレーターを利用する際の“暗黙のルール”をご存じの人は多いだろう。「2列あった場合は片側を空けることがマナー」というものだ。たとえば東京では、エスカレーターの“右側”にボーっと立っていれば白い目で見られてしまう。
しかし近年では、“エスカレーターでは歩かないでほしい”とアナウンスを始めている鉄道会社も多い。例えばJR東日本は、駅員が「歩かず左右2列に並んでご利用ください」と呼びかけたり、手すりや周囲の壁に「お急ぎの場合は階段をご利用ください」というメッセージを示したりといった対策が行われるようになった。いわずもがな、これはエスカレーターでの転倒事故などを防ぐための取り組みである。
しかし、2017年度に一般社団法人日本エレベーター協会がインターネット上で実施したアンケートによれば、83.8%もの人が「エスカレーターを歩行してしまうことがある」と回答。エスカレーターの「片側空けルール」は、世間に馴染んでしまっている。
なんとも罪深いエレベーターの「片側空けルール」だが、そもそもどこで、どのように誕生したのだろうか。文化人類学者として『エスカレーター片側空けという異文化と日本人のアイデンティティ』(2015年)などの論文を発表している江戸川大学名誉教授・斗鬼正一氏に話を聞いた。

斗鬼 正一(とき・まさかず)/文化人類学者
江戸川大学名誉教授、明治大学大学院講師、明治大学文学部講師。『エスカレーター片側空けという異文化と日本人のアイデンティティ』などの論文執筆や、『日本経済新聞』『朝日新聞』『読売新聞』『毎日小学生新聞』におけるエスカレーター片側空け問題についての記事執筆、またイベント『東京2020に向けて暮らしを見つめる』において『エスカレーターから日本が見える―斗鬼先生のエスカレーター文化論―』講演などを行う。
国内の「片側空けルール」は大阪・梅田駅で発生
「『片側空けルール』が世界で初めて生まれた場所は、1942年頃のロンドンの地下鉄の駅でした。というのも、当時イギリスは第二次世界大戦中だったため、輸送需要が急増し、なによりも“効率”が最優先されていたのです。こうした時代背景のもと、イギリスでは“エスカレーターの左側を空けましょう”というキャンペーンが実施されたというわけですね。
また、日本で初めて『片側空けルール』が生まれた場所は、1960年代後半、現在の場所に移転が完了した大阪の阪急梅田駅でした。梅田駅にはエスカレーター、動く歩道が設置され、駅構内では『急ぐ人のために左側を空けましょう』というアナウンスが流されていたのです。
また、関東で初めて『片側空けルール』が生まれた場所は、1989年頃のJR東京駅、新橋駅、地下鉄新御茶ノ水駅などでしたが、イギリスや関西とは異なり、関東ではこのルールは自然発生でした」(斗鬼氏)
では、日本で「片側空けルール」が根付いていった背景には、どのような理由があったのだろうか。
「まず関西で『片側空けルール』が生まれた背景には、時代の影響があったと考えられるでしょう。梅田駅に『片側空けルール』が誕生した1960年代後半は、ちょうど高度経済成長の時代と重なります。当時の日本では、“時間を惜しんで急ぐことはよいこと”という価値観が強く、戦中のイギリス同様、効率が最優先されていたのです。
また、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会(万博)の影響もあると考えられます。万博と『片側空けルール』に直接的な関係はありませんが、そもそも梅田駅の移転は、万博を見据えて実施されたものでした。また当時、日本人の多くに外国旅行の経験が乏しかったためか、“欧米人はマナーがよくて、日本人はマナーが悪い”というような迷信が流布していました。当時の日本人は、万博を機に外国人が日本に大勢訪れるということを大変意識していたのです。
しかし、なぜ梅田駅で左側を空けるようにアナウンスしたのかは、実のところよくわからないのです。当時の阪急電鉄の職員がイギリスの『片側空けルール』の存在を知っており、良かれと思って実施したという可能性もあるかもしれません」(斗鬼氏)
では、関東はどうだったのだろうか。
「関東で『片側空けルール』が生まれた1989年頃は、ちょうどバブル経済の真っただ中でした。やはり高度経済成長の時代と同様に効率が最優先されており、だからこそ関東でも『片側空けルール』が生まれたのだろうと私は考えています。
また、先ほど私は、関東における『片側空けルール』は自然発生的に起こったものだと言いましたが、実は当時、国内のメディアの記事には、イギリスにおける『片側空けルール』の存在を引き合いにして“日本がいかに遅れているか”、“片側空けルールはよいものだ”、“イギリスは礼儀正しい国だ”などといった言説が唱えられていたのです。人々がそれに影響され、イギリスの慣習を踏襲したという面もあると思います」(斗鬼氏)
1 2