結婚して初めて、安心できる居場所を獲得できたからこそ、見えてきた社会

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等身大のフェミニズム/こはなみみこ

結婚するまで、不快な出来事は「当たり前」と思い込んでいた

 私が自分のことを「フェミニストです」と言いはじめたのは、夫と結婚してからのことです。

 現代日本で女性として30年近く生きてきたからには“女だから”という理由で受けた仕打ちに、「それはちょっとおかしくないか?」と思う場面もたくさんありました。小さい頃、母親が友人に私のことを話すとき「女の子って生意気だから」と言ったこと。小学校でスカートめくりが流行したとき、担任の教師に恥ずかしくて不快だと訴えたら「あなたのことが好きなのよ」「男の子は子供だから許してあげて」と言われたこと。中学生の頃、制服姿で自転車に乗っていたらおじさんが運転する車を横付けされて、しばらく付け回されたこと。気味が悪くて親や教師に伝えたら「充分気をつけるように」としか言ってもらえなかったこと。駅のエスカレーターでスカートの中を盗撮され、それを母親に話したら「そんな短いスカートを履いているあんたが悪い」と言われたこと。高校生までは「化粧なんて色気づいて」と言われたのに、就職活動では急に「相手に好印象を与えるため、ナチュラルメイクをしましょう」と言われること。パンツスーツで模擬面接をうけたら「本番ではなるべくスカートを履いたほうがいい」とキャリアセンターの職員に言われたこと。

 ただ女の性を持って生まれたというだけで存在を軽視されたり、性的なアピールが必要ない場面でもちょっとした行動や発言を性的なものと結び付けられて、恥ずかしく居心地の悪い思いをさせられたりすることは数え切れないほどありました。それでも私はそれらの不快な出来事をどこか「当たり前のこと」と思い、受け流して生きてきました。そんな私が「フェミニスト」を自称し、世に蔓延る女性蔑視にきちんと怒れるようになるまでのことをお話ししようと思います。

 改めましてWEZZY読者の皆さま、初めまして。ライターのこはなみみこと申します。今回、WEZZYで文章を書く機会をいただきました。まずは第一回目として、私自身のことについて書いていきたいと思います。

「共に闘ってくれる人」を探した婚活

 20代も残り少なくなったある日のことです。ふいに「私の人生、けっこう詰んでるな」と思いました。

 リーマンショックの余波を受けた就職超氷河期世代だったため新卒での就職ができず、ブラック企業に引っかかりメンタルをやられた後は派遣の事務社員として職場を転々としていること。そしてその転々としている職場でもケアレスミスなどが多く、あまりにも仕事ができずに居心地の悪い思いをしていること(後に病院で診断を受けて発覚するのですが、私はADHDだったためタスクの多い事務職が根本的に向いていなかったのです)。卵巣のチョコレートのう胞という進行性の婦人科系疾患が見つかったこと。過干渉で抑圧的な毒親育ちで、一人暮らしをしていても精神的にはいつも実家に縛られているような感じがして、少しも安らぎを得られる時間がないこと。恋人もなく、どこへも行けないような閉塞感を覚えながら日々生活していました。

 孤独だ、と思いました。

 私の周囲には、私のことを心配したり、慈しんだり、尊重したりしてくれる人が誰もいないことに気付いたのです。当時私の身近にいた人たちは、過干渉で抑圧的な両親を含め、誰も彼も私を支配し、搾取することしか考えていないように思えました。仲の良い友人たちはこの限りではありませんが、彼女らは既に自分の家庭を持っていて、そうなるとどうしても疎遠になりがちなのでした。

 自分の孤独を直視し、「人生詰み」な状態に向き合ったとき、私は「共に闘ってくれる人が欲しい」と強く思いました。お互いの抱えるリスクや生きづらさを共に抱え、それぞれの得意と不得意を持ち寄って、力を合わせて生きていくためのパートナーが欲しい。そう強く思った私が選んだ手段は“婚活”でした。法律に守られた婚姻関係という新しいカードは、毒親との関係に悩む私にとってとても強力に思えたのです。

 ちなみに私のセクシュアリティはL(女性同性愛者)です。しかし過去の女性との恋愛は狂信的な片思いや、付き合っているうちに双方が精神を病むような、およそ健やかとはいえない関係ばかり築いてしまっていたので、思い切ってパートナーシップを築く対象を男性へと絞ることにしました。

 かなり戦略的に婚活に取り組んだ結果、私はいま男性と法律婚しています。夫は私がADHDでいわゆる一般的な会社で働くのが難しいということや、持病のこと、毒でしかない私の家族のことなどを受け入れてくれています。また私も、夫がしばらく軽い適応障害で心療内科に通っていたことや、アスペルガー傾向があり、コミュニケーションにコツが要ることなどを受け入れています。

 夫という自分の手で選び取った家族を得て初めて、私は安心して暮らすことができるようになりました。自分の帰る場所が毒親の住む実家しかなかった頃は、どれだけ自分が家族に苛まれ、常に強い緊張と不安を強いられていたのか、夫と暮らすようになってから初めて分かりました。

 私は、過干渉な毒親家庭で育ちました。髪型、着る服、友人、話し方、仕草においてまで、私は常に“親の思い通りの良い子供”であることを求められてきました。それに反すると、逆上した母親が目の前で泣き叫び、言葉の暴力をふるうことが日常でした。父親は行き過ぎた学歴至上主義で、その評価軸でしか物事を判断せず、弟は社会に上手く馴染めない性質でトラブルを起こしてはその尻拭いを私や母親にさせ、何か上手くいかないことがあるとすぐに「いまから誰それを殺しに行く」などと言い出すのでした。また、自分が社会に上手く馴染めない反動なのか腹いせなのか分かりませんが、弟はたびたび私に性的な嫌がらせをしていました。

 母親の逆上癖は結婚して実家から離れた今も大して変わらず、例えば「私が母親の愚痴を聞きたがらない」などの理由で「いまから死ぬから」「お前のせいで私は死ぬからな」等、電話口で叫ばれる日々を送っています。

 とはいえ、「自分の家族はこの暴言を吐いている人たちしかいない」と思って暴言を聞くのと、「私、もうこの人たちとは別の籍にいるし」と思いながら聞くのとでは、後者の方が精神的にずっと楽です。母親からの暴言電話と夫が家にいるタイミングが合うときなどは、スピーカー通話で母親の暴言をいっしょに聞いてもらうこともありますし、なんとか通話を終わらせたあとに「あれはやばいね、よく頑張った」とすぐに言ってくれる人がいるのは何より心強いです。

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