連載

妄想食堂「アメジスト色のイッタラ、使い道のない食器」

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 使い道のない食器を買った。ガラスでできたアメジスト色のボウル。薄口のガラスの表面には、丸い花模様が浮き出している。イッタラのもう廃盤になってしまったシリーズで、ネットのフリマを通して人伝てに譲ってもらったのだった。

 それはとても素敵な器だった。北欧らしい冷たさと明るさを備えていて、シルエットはすとんと直線的なのに輪郭はまろやか、手のひらで包めばしっくりと肌に馴染む。色合いも不思議で、蛍光灯の下では薄い青に、陽光の下では鮮やかな紅紫にと、透過する光の種類によって複雑な変化を見せる。土の具合で色を変える紫陽花みたいだ。きれいだなぁきれいだなぁと呟きながら、いつまででも眺めていられる。

 実のところ、これを買うまではすごく迷った。家に届いてから二週間、このボウルが食卓に登場したことはまだない。なぜなら、とても扱いにくいから。

 第一にサイズが半端だ。直径八センチとボウルにしては小さく、小鉢のように使うには大きすぎる。そして色。アメジストはきれいだけれど、食べ物をおいしそうに見せてくれる色ではない。同じ花模様のシリーズには、もっと使い勝手の良い色や形のものがあった。淡いオレンジ色のタンブラーは毎朝水を飲むのに便利そうだったし、ボウルにしたって、もう一回り大きいクリアカラーのやつにすれば使う場面に困らなかったと思う。あとは造りが繊細だから、普段の食事で使うのはちょっと憚られるというのもある。割ってしまったらどうしよう。「まあしょうがないよ」と諦めがつくようなものではないし、気軽に買い直せる値段でもない(いつも部屋で使っているようなボウルが五つくらい買える)。そもそも廃盤の商品だから手に入るかも不明だ。使いにくい・使いにくい・使いにくい。この三重苦を理解しつつも、私は小さなアメジスト色のボウルを買ってしまった。その結果、いまだにこの器には正しい役目を割り当てられずにいる。

 食器棚の戸を開けると、そこにはいつもお世話になっている食器たちが並んでいる。お米を食べるお茶碗。スープ用のボウル。炒め物をどーんと載せる皿に、煮物を盛り付ける鉢。取り分け用の小皿。ガラスのコップに陶器のマグカップ。おのおのに決められた用途があって、正しくそれをこなしている。器を作ってくれた人たちも、彼らが食卓で役立っている姿を見ればきっと喜んでくれるはずだ。じゃあ、用途のない器は? 役割を与えられず、ただそこにあるだけの器は、さびしくて無意味なものだろうか。

 使い道がないイッタラのボウルは、布に包んで箱の中にしまってある。ときどき出しては、日の光に透かしてみたり、膨らんだ花の模様を撫でてみたり、蛍光灯の下に持っていって青くなるのを眺めたりする。明け方にひとりキッチンの机で原稿を書いているときなんかは、手元に持ってくれば不思議と気持ちが静かになるし、MacBookの銀色の体に落ちる影は、神様が作った万華鏡みたいに美しい。くるくる回すと、震える湖面のように光がさざめく。空っぽの器。何も収めるものがない、でもだからこそこうして、光に透かして遊ぶことができる。正しく良い食器ではないかもしれないけれど、これは私にとっての「良いもの」だと思う。役に立てられなくても、扱いが難しくても、ただここにあってくれるだけで嬉しいもの。

 この器を作った人たちは、ガラスを熱し、冷やしながら、どんな風景を想像していただろう。彼らが目指したのとは違う風景を、私はガラス越しに眺めているのかもしれない。けれど、その存在がどんな役割や意味を持つかなんていうのは、きっと誰かが決められるものでもないのだ。何かを送り出すこと、そして受け取ることしか、私たちにはできない。

 アメジスト色のボウルは今日も空っぽのまま、私のそばにある。ぼやけた花模様が影を投げかける。私はそれを、とても素敵だと思う。

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