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ハイヒールを脱ぎ捨てて誰にも見えない靴を履く【日本・九段下】

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百女百様/はらだ有彩

 スイスの教育家のヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチにまつわる都市伝説に、「道端で何かを拾ってポケットに入れる老人を不審に思い警官が問い詰めたところ、老人は『靴を買えずに裸足で遊ぶ子供たちが怪我をしないよう、ガラスを拾っていたのです』と答え、警官は自分を恥じた……その老人こそペスタロッチであった」というものがある。

 このエピソードの真偽はともかく、靴が足を守るために絶対に必要なものであることは確かだ。現代の科学技術では裸足で街を歩くことは難しい。低空飛行できるキックボードも、足の裏に直接貼りつけられる靴底も、汚れた足を一瞬で清潔にリセットしてくれる魔法も開発されていない。物理的な制限はしばしば文化的な制限を助長する。屋外でヌードの足を見ると多くの現代人は驚き、「何か事情があるのかな」と推測するだろう。職務質問されることもあるかもしれない。私たちは靴がなければどこにも行けない。

 だから私も、裸足で歩いているその女性を見たときには少し驚いてしまった。

 まだサンダルの人も少ない春の九段下、千鳥ヶ淵。彼女は左右の手に片方ずつ靴を持って、何も履かずにふらふらと歩いていた。桜の季節に千鳥ヶ淵と来ればだいたい想像がつくと思うが、酔っ払った花見客であった。ピクニックに酔っ払いは付き物だし、芝生の上で開放的な素足を楽しむことだって別に珍しくはない。

 それでもつい目で追ってしまったのは、彼女が帰り支度をしてレジャーシートを畳み、砂利道に踏み出す頃になってもなお靴を履こうとしなかったからだ。足元の開放的な装いに反して、足首から上は完全なるオフィスカジュアルだった。スーツショップで売っていそうなぴったりしたグレーのパンツに、白いシャツ。属している集団の雰囲気や時々聞こえてきた会話から察するに、仕事仲間の十数人で開かれた宴会のようだ。記憶では土曜日の遅い午後だったように思うが、確かスーツの男性も数人いた。マナー良くゴミを片付けて撤収しようとする同僚を、酒気を帯びて上機嫌の彼女が遅れて追いかける。たっと駆け出す足の裏に砂がたくさんついていた。

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 「仕事と靴」という組み合わせは、2019年に始まった社会運動「#KuToo」をすぐに思い起こさせる。#KuTooとは、仕事場において女性だけがハイヒールや婦人用パンプスの着用を露骨にまたは暗黙の了解的に強制されることへの抗議活動である。職場で靴を指定された経験がある人とない人では、この運動に対する解像度に差があるだろう。体験したことのないものはファンタジーに感じられる。

 私はかつて営業職をしていたので、どちらかというと経験がある方だ。まだ新人営業マンだったころ、営業部の上司の間で「俺たちは足で稼ぐ」というマインドが流行し、それまで主にテレアポによって行われていた新規顧客開拓が、対面での飛び込み営業に切り替えられた。かなり旧来然としたメソッドである。時代を先取る営業論を語るのはまたの機会に取っておくが、この戦法には大きな穴があった。とにかく効率が悪い。そして足が痛い。地方都市のメーカーはやたらと駅から遠い立地にある。徒歩15分なんてザラで、30分なんてツワモノも少なくない。タクシーに乗れば歩かずにすむが経費で落ちない。悲しい。

 そんなわけで、私は「よ~し、しゃーない、歩くぞ~!」と気合いを入れて、いわゆるウィメンズの文脈でいうところの「おじ靴」、というかメンズのドレスシューズ風の革靴を履いていった。一日じゅう外回りをした帰り、同行していた「足で稼ぐおじさん」は言った。

「その靴、ちょっとフザケすぎだから、明日からはちゃんとしたヒールのあるやつを履いて来ような。」

 いやいや、あんたの靴と寸分違わず同じ形やがな! と思ったが初々しかった私は反論できず、仕方なく2cmヒールのパンプスに変えた。踵の低い革靴でも痛い外回りがヒールパンプスで快適になるわけはなく、私の足裏はすぐにボコボコになった。ちなみに今もボコボコのままである。

 そもそもハイヒール、そして婦人用パンプスとは何だろう。「ファッション辞典」(文化出版局/1999年)によると、「ハイ・ヒール」とは【7cm以上の婦人靴のかかとで、ドレス・アップするときに用いるパンプスや、サンダルにつけられる。背が高くなり、スタイルがよくなるが、歩行用には向かない。】とのことである。ドレスアップということで、続いて同書の「イブニング・シューズ」の項目を見ると【イブニング・ドレスを着るときに履く靴のことで、婦人はドレスにマッチした革または布地のハイヒール・パンプスか、サンダル、紳士は黒エナメルのパンプス、またはオクスフォード。】とある。「パンプス」のページを開くと、【ひもも留め金具も用いないで着脱できる浅い履き口の靴の総称。本来は舞踏用として履かれたものであるが、今日では、タウン用、通勤用としても履かれる一般的な靴となっている。婦人用には各種の高さのヒールがある。婦人のフォーマル用にはヒールの高いものを、また、紳士のタキシードにはヒールの低いものを履く。パンプスは米国の名称で、英国ではコート・シューズという】。

 靴はほとんど生活必需品のくせに、上記のように着用のルールやコンテクストがやたらと細かく決まっている。しかもウィメンズ(婦人)・メンズ(紳士)を分ける垣根が、服よりも圧倒的に手付かずで放置されている。婦人靴は長い時間スカートの中に隠され、女性よりも長距離移動を強いられることが多かった紳士靴と進化の袂を分かっていった。あの外回りの日、私が履いていたドレスシューズは明らかに紳士靴のセオリーから外れていなかったが、婦人靴の条件を満たしていなかったため「足で稼ぐおじさん」にフォーマルではないと認識されたのだろう。2cmだろうが7cmだろうが、とにかく婦人靴にはヒールがなければならないのだ。

 しかしそれほどまでに明確なルールが市民権を得ている割に、ヒール靴の出自はかなり不明瞭だ。よく知られているのは「中世ヨーロッパで用いられた、技術が未熟で壊れやすかった革靴を未舗装の道から守るためのオーバーシューズ」や「トルコから伝わり、ルネサンス期のイタリア・スペインで流行した厚底靴」や「馬に乗るときにあぶみを引っかけ固定するための靴」を起源とする説だが、はっきりと確からしさを認められているものはない。さらに「高さ」という有機的な条件は広義の「パンプス」とグラデーション状に入り混じり、混同に混同を重ねられ今日に至る。

 出どころがよく分からないまま、婦人靴としてのヒール靴にはたくさんのストーリーが託されていった。アンデルセン作の童話『赤い靴』は飾り気のある靴にうつつを抜かした少女が靴によって主体性をコントロールされ、靴と足を失うことによって真人間に戻るという物語である。同じくアンデルセンの『人魚姫』は、恋しい王子のそばに行くために激痛に襲われながらも慣れない靴を着用する。シャルル・ペローの『シンデレラ』では誰も履けないほど小さなガラスの靴が王子様との結婚の決め手となる。中国の纏足は言うまでもなく、足の変形によって行動を制限された状態と女性性を強く結び付けていた。

 形の美しさ、能動的な移動の難しさ、主体性、攻撃性、軽薄さ、それでも履こうという気概の「美しさ」。必要にかられて求められた機能と、文化の結晶である装飾が持つ意味と、人々が好き勝手に託した夢が絡み合い、さらに男女という二極的な指針に乱暴に振り分けられ、それら全てが経年とともに凝縮され、靴はなんだかやんごとないものになってしまった。あんなに小さく、構造や材質や製法において制限の多い物体には少し荷が重いような気もする。しかも日本は洋靴の歴史が浅い。せいぜい文明開化以降の150年弱しか経験のない我々は、言うなれば全員赤ちゃんである。赤ちゃんなのになぜか大人びて他人の靴にあれこれ口を出してしまう。

 かくいう私も、ビジネスシーンで出会った男性がサンダル履きだったときに、反射的に「マジか」と思ってしまった経験がある。確かにサンダルは現代の文脈ではフォーマルではない。しかし、果たして本当に、彼にサンダルを脱がせるほど確からしい理由を私は語れるのだろうか? 例えばサンダルと構造が似ている踵のない靴「ミュール」は、元々は室内履きであり、娼婦以外の女性が人前で履くことはなかった……という歴史を暗記して語ることはできても、現代において靴の踵がないことがもたらす文化的弊害や、娼婦という職業を彷彿とさせてはいけない理由について腹に落ちる説明をできる人がどれほどいるだろう。「駅の階段を降りるときにカンカンうるさいから嫌い」という方がまだ実直である。

ーーヒールがない婦人靴は失礼にあたる。この理由を本当に説明できる人はたぶん、地球上にいない。歴史を説明することはできても、「なぜ」「本当に」「そう」なのか、誰も責任を持って語ることができない。もしかすると靴という服飾雑貨はたった今成熟していっている途中なのかもしれない。技術の進歩によって何も履かなくても安全かつ快適に街を闊歩できるようになり、装飾が完全に娯楽と化し、人々が断片的な歴史の引用ではない自分だけの「靴とは●●と見つけたり」を叫べるようになったとき、私たちは始めて他人の履き物にコメントできるのかもしれない。

 桜吹雪を浴びながら、彼女は裸足のまま走っていった。仲の良い同僚と先輩らしき人たちが「ちょっと~笑」「何やってんの」「痛くないの?」と楽しげにからかう。陽気な酔っ払いはその野次にけらけらと返事をする。彼女が九段下駅までそのまま帰っていったのか、公園を出るところで周囲の人たちの手によって靴を履かされたのかは分からない。少なくとも彼女はそのとき、靴の背負わされた、多すぎる意味から開放されていた。だって履いていないのだから。彼女が安心して歩けるように、道でガラス片を見つけたら拾ってポケットに入れようと思う。

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