連載

ジョー・バイデンの過去/バラク・オバマのレガシー ~「黒人差別の歴史」を語る大統領候補者たち

【この記事のキーワード】

大統領候補者討論会での激論

「学校の人種隔離を解消するためのスクールバスに毎朝乗っていた幼い少女とは、私なのです」

 カマラ・ハリス候補の言葉に、元副大統領ジョー・バイデン候補の表情が引き攣った。6 月27日、2020大統領選・民主党候補者の討論会での出来事だ。

 6 月26~27日に討論会の第1回目が行われた。立候補者25名と史上最多のため20名が選ばれ、10名ずつに分けて2夜にわたって開催されたのだった。上記のシーンは2夜目に起こった。

 ディベートとは本来は討論だが、10名での討論は難しい。よって今回は司会者が各候補者に質問し、それに応えるQ&A方式が採られ、候補者同士の議論は避けられた。

 とはいえ、ある候補者の回答が他の候補者の異議、異論を招き、議論になるシーンが何度もあった。中でも上記のハリスとバイデンの議論は激しく、かつ人種問題に真っ向から挑むものだけに中継を見ていた人々を驚かせ、メディアも大々的に取り上げた。

黒人と白人を混ぜるためのスクールバス政策

 アメリカは奴隷解放後、黒人も学校に通えるようになったが、学校での人種隔離を法で定めていた。白人は白人地区にある白人のみの学校に、黒人は黒人地区にある黒人のみの学校に通っていた。黒人の学校は建物も粗末で予算もなく、教科書すら揃えられなかった。したがって黒人は満足な教育を得られず、かつ雇用時点での人種差別もあり、貧困から抜け出せなかった。

 この環境は1954年に米国最高裁が「公立学校での人種隔離は違憲」と裁定したのちも延々と続いた。そこで1970~1980年代に、黒人地区に暮らす黒人の子供をスクールバスで白人地区の学校に通わせ、白人地区の子供を黒人地区に通わせる「Busing」と呼ばれる政策が採られた。この政策に多くの白人が猛烈に反対し、暴力事件に発展することすらあった。

 バイデンは1973年に地元デラウェア州で上院議員に初当選し、以後、2009年にオバマ政権の副大統領となるまで長きにわたって有力な議員として活躍した。副大統領時代にはオバマ大統領と共に人種間格差解消策にも取り組んだが、議員当時はスクールバスによる学校の人種統合に反対していた。1975~76年にかけてスクールバス通学法への反対法案に賛同するだけでなく、自ら反対の法案提出すら行っている。

 カマラ・ハリスは母親がインドからの移民であった科学者(故人)、父親がジャマイカからの移民であった大学教授で、両親の離婚後も黒人地区に暮らしていた。1964年生まれのハリスは、まさにスクールバスによる通学策によって白人地区の学校に通った世代だ。

 成長したハリスはロー・スクールに入学。卒業後、まずはカリフォルニア州アラメダ郡の検事、ついでサンフランシスコ市の検事、やがてカリフォルニア州の司法長官となり、上院議員を経て、現在、大統領選に立候補している。

 ちなみにオバマ政権下の司法長官エリック・ホルダーが引退する際、ハリスはその後任を打診されている。ハリスは自身のキャリアを考えて辞退しているが、もし受けていれば、当時、副大統領だったバイデンとも共に働いていたことになる。

 討論会でハリスはバイデンに向かって以下のように語った。

「私と妹は、友だちの親から『一緒に遊んではいけません』と言われました。私たちが黒人だからです」
「カリフォルニアに幼い少女がいました。二級市民でありながら人種統合の公立学校に毎日バスで通いました。その幼い少女とは、私です」

 ハリスが語る間、正面を見つめていたバイデンはこの言葉を聞いた瞬間、驚きの眼差しでハリスを振り返った。もし、1976年にバイデンの人種統合バス通学反対案が可決されていれば、カマラ・ハリスは大統領選討論会の場にはいなかったかもしれないのだ。

カマラ・ハリス「バスで通学する幼い少女がカリフォルニアにいました。その少女は私です」

1 2

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。