後回しにされる「差別」 トランスジェンダーを加害者扱いする「想像的逆転」に抗して

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「対抗的読み」

 バトラーは先に紹介した論文のなかで、このような「想像的逆転」に抗するために必要なのは「対抗的読み(counterreading)」であると述べている。ロドニー・キング事件に関してバトラーが述べているのは、キングに対する暴行を明らかにするために「事実」や「中立」に頼ることはできないということである。なぜなら、「事実」や「中立」といった場そのものが「人種差別的図式」に乗っ取られているからだ。したがって、キングに対する暴行の様子を映した映像を「ただ見ること」は実際には「ただ見ること」ではなく、人種差別的図式の下で「読むこと」であり、この「人種差別的読み」はあたかも「事実」や「中立」を装うのである。それゆえ、「事実」や「中立」を装っている規範的暴力を批判的に炙り出す「対抗的読み」の実践が必要になるのだ。バトラーがロドニー・キング事件に即して述べているように、「対抗的読み」とは、「暴力の「出来事」を見出すために読むだけでなく、この出来事を編成し解釈するような人種差別的図式を見出す」[8]試みである。例えば、性暴力のサバイバーの人がその被害を訴えると「ハニートラップ」などと揶揄され、あたかも「先に攻撃を仕掛けた」のはサバイバーの側だとみなす暴力的な言説があるが、そのような言説の背景にある性差別の構造を読み解くのも「対抗的読み」の一例である。この意味で、「#MeToo」運動もまた「対抗的読み」の実践であると言えるだろう。

 したがってトランス排除の文脈に戻れば、私たちに必要とされているのは「トランス差別的図式」を暴くような「対抗的読み」である。ハッシュタグ「#トランスジェンダーとともに」や「#ともにあるためのフェミニズム」はまさにこの意味で、「対抗的読み」である。それは、あたかも「自然な感情」として語られるトランス女性への不安や恐怖の背景にあるトランス嫌悪・差別の規範的構造を明らかにしようとする「対抗的読み」なのである。

 先に言及した記事「ツイッターのせいで高校からの友達が死んだ」に対してさえ、それを揶揄するコメントが散見される。そこではバトラーの言葉を借りれば、トランスジェンダーは「悲しまれるに値しない存在」とみなされているのだ。尾崎日菜子は「「エイリアンの着ぐるみ」」[9]で、ボイスレターの形をとった一種の追悼文を寄せている。トランスジェンダーが「悲しまれるに値しない存在」とみなされている社会のなかで、彼女の死を悼むことはそれ自体が「対抗的読み」である。彼女の死を悲しみ、悼むというただそれだけの行為が、トランスの死が「悲しまれるに値しない」とされているこの社会の「トランス差別的図式」を白日の下に曝すのだ。この意味で、「対抗的読み」とは、トランスジェンダーの人たちの生存可能性を押し広げるためになされる切実な要求であり実践なのである。それは尾崎の言葉を借りれば、「ここではないどこか」「あなたが生き続けていられた別の歴史」[10]を求める声なのだ。言葉が人を傷つけ、ときに人を死に至らしめることが事実であるとすれば、言葉が人を勇気づけ、ときにその人の生存可能性を押し広げることもまた、たしかに真実なのである。

「ともにある」ために

 ツイッター上でのトランス排除的言説に関して私がもっとも残念に思っているのは、それが「フェミニスト」を自認したり、この社会の性差別を憂慮している人たちによって率先されて行われているという事実である。あたかも、「女性の安全」を守るためにはトランス排除もやむなし、とする議論が横行している。私がこれらの議論において懸念していることは、あたかも差別や社会問題には「優先順位」があるとみなす発想である。

 最近問題になったレズビアンバーの Gold Finger のトランス排除の事件[11]に関して、牧村朝子さえ「それぞれの船で向かう途中」という記事[12]で同様の見解を述べているように思われる。そこでは、レズビアンの「安全」を守るためにはトランス女性の排除もやむなし、とする議論が展開された。もちろん、この日本社会においてレズビアン・コミュニティを作り維持することは難しく、また、レズビアン・コミュニティではトランスジェンダーの受け入れをめぐって議論されてきた歴史もある。それゆえ、いわゆるTERFと呼ばれる強硬なトランス排除派の立場と牧村の立場を同一視するつもりはないし、今回の件をもってこれまでの Gold Finger や牧村の活動を否定するつもりもない。それでも、 Gold Finger の告知文と牧村の記事が掲載された際の「日本での状況」[13]において、これらの言説はその意図がどうであれ結果的にトランス排除・差別を強化する「効果」をもつものだったし、牧村の発言に傷ついたトランスジェンダーは多かったはずである。

 ここで私が思い起こすのは、田中玲の論考「クィアと「優先順位」の問題」[14]である。2007年の日本女性学会で、FTXトランスジェンダーの田中はシンポジストとして自身のドメスティック・バイオレンスの被害について報告した。「トランスジェンダー・フェミニズム」を提唱した田中にとって、その場は残念ながら、トランスジェンダーとフェミニズムの「不幸な出会い」になってしまった。そこで田中は聴衆の女性(おそらくは、ヘテロセクシュアルでシスジェンダーの)から、「優先順位が違う」という言葉を投げつけられたのである。あるトランスジェンダーのDV被害は、ヘテロセクシュアルでシスジェンダーの女性のDV被害よりも「優先順位が低い」とみなされたのだ。だが、果たして、差別や暴力に「優先順位」など存在するのか。「後回しにされていい差別」など存在するのか。誰かの「安全」のために犠牲にされていい差別や暴力など、存在するのか。

 吉原令子はアメリカ合衆国におけるフェミニズム運動について考察した著作で、「一九六〇年代に台頭した女性解放運動は、「女」という同一性を基盤としていたことは言うまでもない。しかし、運動の担い手であった中産階級の白人女性が「女」という同一性を強調すればするほど、運動内に存在する女の差異が蔑ろにされた。レズビアンや有色人種の女性、労働者階級の女性から、「女」というカテゴリーそれ自体への問いかけが、一九六〇年代後半に早くも運動内で噴出」[15]したと述べている。このように、すでに運動の初期から「女」の内部の「女たち」の差異が問われるようになったのであり、第二波フェミニズムの歴史が私たちに教示するのは「性差別と闘う時、その抑圧の複雑性・重複性・同時性を考え」[16]ることの大切さである。日本のフェミニズム運動にしても、例えば在日朝鮮人やレズビアンの立場から「女たち」の差異が問われ、その「共闘」が模索されてきた歴史がある。あえて言えば、私にとってのフェミニズムとはつねに「ともにあるためのフェミニズム」である。フェミニズムこそ、「私たち」が「ともにある」ことを模索してきた/いる思想であり運動ではないのか。マイノリティ間の連帯はいつの世も難しい課題である。だが、それにもかかわらず、「ともにある」ことを諦めず、模索してきたのがフェミニズムではなかったか。

 いま、私たちに求められているのは、「トランスジェンダーとともにあるフェミニズム」である。トランスジェンダーは多くの面で、シスジェンダーが経験するジェンダー規範の抑圧や差別を共通して経験している。また、山田秀頌が述べているように[17]、トランスジェンダーは「シスセクシズム」――「トランスの人々の性自認や性表現を、シスの人々のそれよりも正当ではないものとみなすセクシズム」――を経験するなど、両者の経験には差異もある。むしろ私たちは、このような共通性と差異について丁寧な対話を積み重ねていく必要があるだろう。そして、このような対話の積み重ねこそ、フェミニズムの可能性をより実り豊かに育む実践なのではないだろうか。「私たち」にいま求められているのは、「ともにある」ために交わされる対話の試みであって、分断線を引くことではないはずだ。

 最後に、先に言及した論考「クィアと「優先順位」の問題」で田中がその結論部で述べた以下の言葉を引用して、本稿を閉じることにしたい。

 今までずっと、私はいろんな側面でヘテロセクシュアル・フェミニストの人たちとも繋がれると思って来た。そう、私たちにとっての「敵」とはお互いではないはずだ。私たちがそれぞれ属しているカテゴリーが大きかろうが小さかろうがどんな種類のものだろうが、現在の社会の中の性別二元制への疑いのない信仰と、ミソジニー(女性蔑視)、ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)、その権力志向が私たちを抑圧する。お互い共感するところがあったり、歩み寄ろうとしても、まだまだお互いの間のハードルは高く、問題は山積みだ。理解しあうためには恐らくもっともっと話し合いをたくさん重ねなければならない。[18]

[1] 堀あきこ, 2019「分断された性差別――「フェミニスト」によるトランス排除」『女たちの21世紀』no. 98, アジア女性資料センター, pp. 6-10.
[2] この報道に対する批判としては、遠藤まめたの記事「松浦大悟さんの「女湯に男性器のある人を入れないのは差別」論への疑問:野党批判のためにトランスジェンダーへの恐怖を煽るのか?」を参照。
[3]  https://anond.hatelabo.jp/20190109004202 を参照。
[4] Judith Butler, 2004, “Endangered/Endangering: Schematic Racism and White Paranoia,” in The Judith Butler Reader, ed. Sara Salih, Blackwell Publishing, pp. 204-211. (ジュディス・バトラー(池田成一訳)1997「危険にさらされている/危険にさらす――図式的人種差別と白人のパラノイア」『現代思想』vol. 25-11, pp. 123-131.)
[5] Ibid., p. 205.
[6] ロサンジェルス暴動はまさに、このような人種差別を背景とした不当な裁判結果に反対して引き起こされた
[7] Gayle Salamon, 2018, The Life and Death of Latisha King: A Critical Phenomenology of Transphobia, New York University Press. なお、本書は古怒田望人と共訳で翻訳出版を企画中である。
[8] Judith Butler, 2004, “Endangered/Endangering: Schematic Racism and White Paranoia,” in The Judith Butler Reader, ed. Sara Salih, Blackwell Publishing, p. 210.
[9] 尾崎日菜子「「エイリアンの着ぐるみ」」『女たちの21世紀』no. 98, アジア女性資料センター, pp. 11-16.
[10] 同上, p. 16.
[11] 発端は、今年四月に行われた月一回の女性限定イベントでトランス女性のエリン・マクレディさんが入場を拒否されたことだった。そして、その後の対応で、 Gold Finger は「シスジェンダーの方(生まれも自認も女性)」という入場資格を設定し、これがトランス排除として批判された。その後、 Gold Finger はトランスジェンダーであることで入場を断らない方針を示し、謝罪した。
[12]  https://note.mu/yurikure/n/n0eaf02c0470a を参照。この記事を批判した李琴峰の記事「同じ船に乗って、同じ虹のもとへ」も併せて読まれたい。
[13] 問題になった Gold Finger のイベント告知文にあった文言。
[14] 田中玲, 2007「クィアと「優先順位」の問題」『女性学』vol. 15, 日本女性学会, pp. 46-49.
[15]吉原令子, 2013『アメリカの第二波フェミニズム――一九六〇年代から現在まで』ドメス出版, p. 23.
[16] 同上, p. 29.
[17]山田秀頌「「女性専用スペースからトランス女性を排除しなければならない」という主張に、フェミニストやトランスはどう抵抗してきたか」を参照。
[18]田中玲, 2007「クィアと「優先順位」の問題」『女性学』vol. 15, 日本女性学会, p. 49.

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