新刊刊行のお知らせ
まず宣伝で恐縮ですが、この連載が本になりました。連載記事に新しい書き下ろし6本を加えた『お砂糖とスパイスと爆発的な何か-不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』が、6月に書肆侃侃房から刊行されています。
カバーの絵は緋田すだちさん、帯の文はライムスター宇多丸さんによるものです。一時期品薄だったのですが、先週重版がかかりましたので、興味のある方は是非ご覧下さい。刊行を記念して7月14日(土)の夜に浅草のReadin’ Writin’ BOOKSTOREでイベントも行う予定です。
白鳥になるビリー
さて、今回取り上げたいのは映画『リトル・ダンサー』こと『ビリー・エリオット』(Billy Elliot)です。2000年の映画は『リトル・ダンサー』という日本語タイトルで公開されましたが、2005年にエルトン・ジョンを音楽担当に迎えて作られた舞台版ミュージカルは『ビリー・エリオット~リトル・ダンサー~』として日本でもヒットし、2020年には再演予定です。また、作中で鍵になるバレエ作品で、この連載でもとりあげたマシュー・ボーンの『白鳥の湖』が7月11日から来日公演を行います。8月には映画・舞台の脚本家リー・ホールが台本を担当し、映画でビリー役だったジェイミー・ベルも出演するエルトン・ジョンの伝記映画『ロケットマン』が公開されます。これから関連作品が目白押しの『ビリー・エリオット』は今押さえておくのにふさわしい作品でしょう。この記事では、とくにこの映画における「男らしさ」の描写に着目してみたいと思います。
映画の舞台は1980年代、おそらく北イングランドのダラムに近い炭鉱町です。この町はマーガレット・サッチャー政権下の鉱山閉鎖方針により大揺れで、労働者は長期ストライキに突入しています。主人公ビリー(ジェイミー・ベル)の父ジャッキー(ゲイリー・ルイス)と兄トニー(ジェイミー・ドラヴェン)はストに熱心に参加しています。母は亡くなっており、ビリーはおばあちゃん(ジーン・ヘイウッド)の面倒を見ながらボクシングを習っています。
ビリーはひょんなことからバレエに惹かれるようになり、うまくいかないボクシングを辞めて、ウィルキンソン先生(ジュリー・ウォルターズ)のところでダンスを始めます。ビリーには才能があることがわかり、ウィルキンソン先生はロイヤルバレエ学校の受験をすすめます。ところがジャッキーやトニーは、ビリーが「男らしく」なく、かつ労働者階級らしくないバレエをすることをなかなか認められません。ジャッキーがどういう経過でビリーを応援するようになるのかが、この映画の終盤の見所です。無事バレエ学校に入学したビリーは最後、マシュー・ボーン版『白鳥の湖』の主役の白鳥として舞台に立ちます。
この映画の基本にあるのは『白鳥の湖』と「醜いアヒルの子」です。ビリーはパッとしない小さなアヒルの子から、バレエダンサーになることで美しい白鳥に変身します(これはわりと定番の展開で、以前連載でとりあげた『ダンシング・ヒーロー』と同じです)。ビリーが白鳥になることがハッピーエンドだというこの物語は、ヒロインのオデットが白鳥から人間に戻ろうとする『白鳥の湖』と鋭い対比をなしています。ビリーの望みはオデットと逆で、白鳥になることは象徴的に人間の世界を捨てることなのです。ビリーがダンサーになるためには、生まれ育った労働者階級の炭鉱町を離れ、親元を離れ、故郷の文化から離れる必要があります。全てを捨てて魔法のように美しい踊りの世界に入るビリーは大きな代償を支払ったのであり、だからこそ、その決断の重みが際立ちます。
父の変身
『ビリー・エリオット』で大きな変身を遂げるのは、主人公のビリーだけではありません。父ジャッキーも劇的に変身します。ジャッキーの変化は、「男らしさ」観に強くかかわるものです。
映画冒頭のジャッキーは、炭鉱夫として長年働いて家族を支えてきたことに誇りを持つ父親です。ジャッキーがストに熱心に参加しているのは、生活が脅かされるからというだけではなく、炭鉱閉鎖によって一家の長として立派に働いてきたというアイデンティティが脅威にさらされるからでもあります。ジャッキーにとって、「男らしさ」というのは肉体的な強さや、一家の長としてしっかり稼ぐこと、仕事に誇りを持つことなどに結びつけられています。息子ビリーにもボクシングを習わせて強く「男らしく」育てたいと思っていますが、一方で認知症気味で弱っているおばあちゃんの世話をビリーにさせるあたり、所謂ケア労働をビリーに任せているところがあります。家族の面倒を見たり、看病したりするケア労働は伝統的に女性のものとされていることが多く、言ってみればジャッキーはビリーを男らしく育てたいと思いつつも、社会的に「女らしい」とされている家庭内労働は自分で行わずにビリーにやらせているのです。このあたり、ジャッキーの「男らしさ」は映画の序盤から既に矛盾を抱えています。
ジャッキーは亡き妻についてあまり話したがらず、ビリーが母親のことを持ち出すのを嫌がります。ビリーが母の遺品と思われるピアノを弾いてジャッキーにやめるよう言われる場面がありますが、そこでビリーが「お母さんなら許してくれたよ」と言うと、ジャッキーは不機嫌そうに無理矢理ピアノのふたをしめて演奏を止めさせます。トニーはジャッキーと口論になった時、「お母さんが死んでから父さんはただの役立たずだ」とひどいことを言いますが、ジャッキーが妻の死をきちんと整理できていないことは間違いありません。ジャッキーは男らしい家長としての威厳を保とうと頑張っていますが、かつて妻が果たしていたと思われる優しさ、ケア、細やかさといった親として重要な役目をうまく果たせていないのです。
そんなジャッキーの「男らしさ」観に変化が起こるきっかけは、クリスマスに楽しそうに踊るビリーの姿を見たことです。この後ジャッキーはウィルキンソン先生を訪ねてビリーの才能について話を聞きます。何も言わずにスト破りのグループに参加し、鉱山で働いて賃金をもらうことにより、ビリーのオーディション費用を工面しようとします。ウィルキンソン先生に対して、ジャッキーは「あいつは俺の息子」だから自分でなんとかする、と言います。これはジャッキーの心境の変化を示す台詞です。これまで、一家の働き手、立派な炭鉱夫としてのアイデンティティを自らの拠り所としていたジャッキーが、ひとりの父になることを決めた瞬間だからです。スト破りをしてまで息子にチャンスを与えようとするジャッキーはケアする親です。ジャッキーは子供のために自らを犠牲にしてまで尽くそうとするお父さんとしての「男らしさ」を選んだのです。
ジャッキーの決断はほとんど台詞で説明されず、表情や演出だけで観客にわかるよう工夫がなされています。説明的なところがない淡々とした展開であるぶん、ショッキングです。ストライキの中心的な人物だったトニーも父の静かな決断に強い衝撃を受け、ビリーの進学を認めるほうに動きます。
息子を白鳥に変えるため自らの身を捧げようとするジャッキーは、父親に変身したと言えます。ジャッキーが拠り所とする男らしさは、誇り高い炭鉱夫であることから良き父であることに変わったわけですが、果たしてこの「良き父」であるということは、「男らしさ」なのでしょうか。ジャッキー自身はおそらく、良き父たることを男らしさだと考えているでしょうが、一方で子供をケアする良い親であること、人を思いやり世話する優しさを持つことは、性別を問わないより一般的な美徳であるとも言えます。自分では気付いていなくとも、ジャッキーは伝統的な「男らしさ」観から抜け出て、少し違う徳に近付いたと言えるのかもしれません。この作品ではビリーがジェンダーの枠を越えた変身をしていますが、実はジャッキーもジェンダーについての変身を遂げているのです。
1990年代のイギリスでは、サッチャー政権下の鉱山閉鎖や民営化、労働者解雇などを反映する作品が複数作られました。ヨークシャの炭鉱ブラスバンドを主題とする『ブラス!』(1996)や、不況にあえぐ鉄鋼の町シェフィールドで男性ストリップを始めて稼ごうとする男たちを描いた『フル・モンティ』(1997)などはその例ですが、どちらも失業がいかに「男らしさ」に危機をもたらすか、そして男たちがそれをどう乗り越えるか、ということを描いています。『リトル・ダンサー』をはじめとするこうした作品群は興味深いものが多く、非常にオススメです。皆さんも是非、見て考えてみてください。
※この記事は武蔵大学英語英米文化学科2019年夏「イギリス文学ゼミナール1」の授業から大きなヒントを得ています。クラスのメンバーに深く感謝します。
参考文献
Lee Hall, Billy Elliot, Faber and Faber, 2000.
河島伸子他編『イギリス映画と文化政策-ブレア政権以降のポリティカル・エコノミー』慶應義塾大学出版会、2012。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』生田久美子他訳、川島書店、1986。