当事者は「政治利用」できるのか?――れいわ新選組が可視化した論点

【この記事のキーワード】

当事者である/当事者ではない(かもしれない)人にとっての意義

 まずは、真っ先に論じるべきことから考えてみたい。

 これまで「当事者である」状況によって、国会議員になる機会を奪われたり、遠ざけられてきた人々がいる。例えば今回の選挙では、ALSや脳性まひの患者が立候補しているが、すでに報道されているように、参議院は完全なバリアフリーにはなっていない。そもそも、こうした障害や難病当事者が議員になることすら想定されていなかったのだ。こうした人々が「当事者である」からこそ直面する問題状況について人々に知らしめながら、国会で論戦を張ることには意義がある、ということだ。

 たとえば、「当事者である人」が国会議員になることは、「当事者でない国会議員」が「大した問題じゃないし……」とスルーしてしまう問題や、そもそも気にも留めないことが、当事者とその身の回りの人々にとって実は大問題であることを可視化しうる点で、たいへんな意義がある。

 だが、ここで注意しなければならないことは、上記の意義は、同じ「当事者である」人々やその身の回りの人々にとってのみ感受されるものではないということである。

 つまり、まわりまわって「当事者でない」人にとってもメリットが生まれる可能性について考えておく必要があるのだ。それこそ、東京出身の首相にG20で「ミス」だと言われてしまった大阪城のエレベーターが、実際には一部の人々だけでなく、さまざまな事情をもった大勢の人々に利用されてきたように。スルーされがちな問題が可視化され、その対策が練られ、実施されるメリットを享受するのは、想定される一部の当事者だけとは限らないのだ。さらに、今は「当事者でない」人がいつか「当事者になった」ときや、「当事者の身の回りにいる人」になる状況が訪れたときにも、やはりメリットはあるだろう。その意味で、当事者で(も)ある人が国会議員になることの意義は、当事者に限らず大いにありうる。要するに、当事者で(も)ある国会議員がいることで生まれるだろうポジティブな状況や仕組みを「利用」するのは、当事者に限らないのである。

 たとえば、障害や難病をもった当事者が当選を果たし、国会議員になれば、国会議員としての職務をまっとうさせるべく、国会議場内のバリアフリーやユニバーサルデザインの利用が進み、それを参照点として、全国各地の自治体や企業で環境整備やサービスの活用が促進され、それらに関する知識が広まれば、やがて、当事者はもちろん、そうでない人々にとって、居心地の良い社会が実現する可能性が高まるのである。

 そもそも、国会議員になるチャンスを奪われたり遠ざけられたりした人々がいる状況があるにもかかわらず、その状況を看過して「当事者の政治利用だ」などとSNSに書いている人々は、現在の不均衡な状況を「利用」しているとすらいえる。「当事者を政治利用するな」と叫ぶ人々は、そう叫ぶことで、自分たちの代理にふさわしそうな候補者にとって有利な状況を生み出すべく、現在の不均衡な状況と当事者を結果的に「政治利用」しているのである。さらにいえば、当事者の国会議員がいないことを特に理由もなく受け入れている態度やそのような現状を維持しようとすることそれ自体が、どうしようもなく政治的だともいえる。当事者の機会や声が奪われているという圧倒的な不正義を受け入れ、加担しているのだから。

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