当事者は「政治利用」できるのか?――れいわ新選組が可視化した論点

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当事者の差異と複雑性

 では、当事者の国会議員が当選すればそうした問題はなくなるのか。ここでおそらく立場がわかれてくる。問題の第2ステージはここからだ。

 なぜなら、たとえ当事者であったとしても、「当事者と呼ばれるすべての人々」が抱える差異やそれぞれに置かれた状況の複雑性を適切に把握することは必ずしも容易ではないからだ。

 当事者と名指され、名乗る人々も、実際には、社会的性別、性的指向、障害、階層、学歴、信仰、人的ネットワークはもちろん、たどってきた経路(routes)も抱いている問題関心や思い描く処方箋も、さまざまだろう。

 近似した問題状況に絡め取られているからこそ、特定の人々が「当事者」として括られるのだが、その内部は、簡単にひとくくりにできるほど、シンプルではないはずだ。

 だから、ある当事者による何かしらの政治的判断が、ほかの当事者にとって違和感を与えることや不利益をもたらすことは、当然ありえる。

 国会議員が国民(むしろ住民)の代理にすぎないという事実が、ここで改めて問われてくるわけである。代理は代理であって、結局のところ本人ではない。

 誰かが1票を投じた与党議員が年金制度の問題について深掘りをしないことで、1票を投じた人々の将来の懐事情をいっそう雲行きの怪しいものにしてしまっているように、いったん代理を引き受けたはずの国会議員が職務を放棄しているようにみえることもある。当選後に「自分は信頼されたので……」と言われながら、選んだコチラ側が主導権を奪われて、ちゃっかり「政治利用」されてしまうことなど、これまでにもよく目にしてきたはずだ。そして、そのたびに選挙区の支持者の怒号を受けている国会議員の様子をメディアごしに見てきたはずである。

 何らかの当事者性をもった人物が国会議員になったとしても、代理として1票を投じた当事者が裏切られたと感じてしまうリスクと完全に無縁であることはないだろう。その意味では、どのような当事者性であっても、その内部に差異や複雑性を抱えているがために、いとも簡単に「政治利用」できてしまえるようなことはない、といえるのではないだろうか。

 では、結局のところ「代理を選ぶ」という選挙制度である以上、当事者で(も)ある国会議員が登場することに、実はたいして意味はないのだろうか?

 そんなことはない。ここからが問題の第3ステージだ。

 実は、わたしたちは動揺しているのではないだろうか。れいわ新選組にではない。れいわ新選組があらわにしてしまった現状とそのことに対する責任の重さに対してである。つまり、2019年の上半期が終わるころまで「当事者でもある国会議員がいなかったり少なかったりする不均衡な状況」をすっかり放置してきてしまった現状と、当事者たちの声を奪い、遠ざけてきた力学にわたしたちが巻き込まれていた、いや、意図の有無は問わずとも加担していた責任に、である。

 不均衡な現状を顕在化させるのは、れいわ新選組でなくてもよかったはずなのだ。別に、連立与党や衛星政党と揶揄される一部野党でも、別に構わなかったはずだった。「一億総活躍社会」を掲げながらも、そこには国会議員として活躍することをあらかじめ妨げられていた人々がいたのだから。もっとさまざまな当事者性をもった国会議員を擁立することで話題を呼んでもよかったはずであるし、「政治利用だ」と批判されていてもよかったはずなのである。

 だが結局、このような論点を提示するためには、れいわ新選組を待たねばならなかったのである。

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