もちろん、これまでも何らかのマイノリティとしての当事者性をもった国会議員が全くいなかったわけでは決してない。だが、「政治利用だ」「当事者を国会に送らねば」という声が高まっている現在の状況が示唆していることは、この社会が、れいわ新選組に当事者という論点を提示させるような、不均衡かつ不公正が充満する社会である、ということだ。
だからこそ、当事者性をもった国会議員が現れる可能性に賭けてみたくなる/賭けざるをえない人々が、れいわ新選組――に限らずとも、当事者性をもつ候補者たちと、当事者と共に動いてきた候補者――に注目し、街宣におもむき、SNSに投稿し続けているのだろう。自分(たち)の代理として、問題を発見・整理し、議論を起こしてくれるのではないか、と。
そういう僕も、何かしらの当事者、あるいは当事者と共に問題含みの日常について行動してきた候補者に期待を寄せつつ、選挙ポスターを眺めている。
結局、国会議員はさまざまな人々を代表する個人にすぎないし、そもそも当事者性自体がもつ差異や複雑性が、コチラの想像を越えるものだとしても、そこに賭けてみたくなる状況のなかに、僕も巻き込まれているのだろう。
それが選挙というものだろう。でも、悩む。選び出した議員が議会でおこなうことが、コチラが期待していたものとピッタリと一致する保証は何もないからだ。だから、選挙が終わってからも、駆け引きは続く。「デモなんかせずに選挙に行きなさい」「この人に任せたら大丈夫」なんていう言葉は、楽観的すぎないだろうか。政治的な駆け引きや当事者性の複雑さ、あるいは代理を務める人物との関係性が動態的であることを、みくびってはいないだろうか。
選びそこなうこと
ところで、この社会には選挙権をはじめから奪われてしまった人々がいる。僕の父親は、だいぶ長い間日本に住んで、働き、せっせと税金をおさめてきたが、外国人なので今なお選挙権はない。「そんな人もいるから選挙に行ってほしい」といっても、それで突き動かされる人は、たぶん誰かに促されなくても選挙に行くとおもう。こんな時だけ「若者よ選挙に行け」だなんて都合よく若者を利用するかのような「オトナ」の身のこなしには染まりたくないので、とりあえず、僕は僕の問題として1票を誰に投じるべきか、もう少しだけ思い悩むことにする。
ほかの誰かの1票に振り回されて、僕と僕の身の回りの人やこれから知り合うかもしれない住民が、ただただ「利用」されることだけは、まっぴらごめんだからだ。
誰に1票を投じるのかは、結局まだ決めていない。
とりあえず、「綺麗事はやめにしよう、本音で語ろう」と言いながら激烈な言葉を誰かにぶつける人や、質問にちゃんと答えなかったり、すぐ忘れたことにしたり、なかったことにしたり、デマや差別に加担したり、自然災害が起こったときに住民をほったらかしにしたり、警察によるヤジる住民の排除を問題視しなかったり、自分のやったことを遺憾だなんて言い出しそうだったり、そうした人物を支えてしまえるような代理人を選ぶのは、とりあえずやめておこう、とは思っている。
代理を「選びそこなう」ことで、不均衡かつ不公正な状況に――またしても?――加担してしまう恐れと責任を感じながら、あと少しだけ、悩むことにする。