長年にわたる虐待被害との決別、戸籍の名前を変えた「ボク」のこれから

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年間約6000件が受理される「名の変更届」

 自分の性別について違和感があったMは、前々から改名――戸籍上の姓名から名を変更する「名の変更」――という法的手続きがあることを知っていた。

「新しい名前を決めるときに、最初は『タク』という呼び方にしようと思ってたんですよね。亡くなった同級生の名前を一部もらって。でも、それだと元の(自分の)名前に響きが似ちゃってて……。それは、長く使うのはツラいかなって。で、『ツバサ』(という名前)にしました。当時のカウンセラーに、『君の心には翼が生えているよ』と言われたことがあって、すごくうれしかったから」

 性同一性障がいの場合は、男性名から女性名、またはその逆への変更が行われる。ほかにも僧侶になったり伝統芸能で襲名した場合、家族の中に同姓同名がいる場合などにも適用される。本人の申請は、満15歳以上で可能(15歳未満の場合は、両親などの法定代理人が必要)。毎年、全国で約6000件が受理されている。

 これなら自分もできるのではないか。しかし、ひとつ懸念点があった。

「性同一性障がいが理由になる改名はあったんですけど、虐待を理由にした例が、ネットでいくら調べてもほぼヒットしませんでした。すごく不安でした。そんな中、具体的にやり方を教えてくれる人をTwitterで探していたら、すでに成功している人と繋がれたんです。確実に受理されるためには、新しい名前(通称名)を使った“実績”が必要だと教えてもらいました」

Twitterのフォロワーさんが協力してくれた

 2016年9月、さっそくMは動き出した。

「友だちみんなに連絡して『この名前(翼)でハガキを送って』とか、Twitterのフォロワーさんにも新しい名前で呼んでとか、思いつくことは何でもしました。お店のポイントカードを『翼』で登録して、わざとダイレクトメールを送ってもらったこともあります」

 当初は、準備期間を5年間ぐらいみていた。しかし、この時も常に自殺を考えていたMは、長い期間を耐えられそうになかったという。それでも1年半はがんばり、申請に踏み切った。

「Twitterで、(成功した)その人に出会わなかったら、改名してなかったかもしれません」

 地元の家庭裁判所に書類を取りにいって、2017年2月に申請書を発送。1週間後に「名を変更したい理由」「受けている行政サービス」「通称名の使用実績」などを記入する照会書が届く。Mは丸一日かけて記入し、翌日には返送した。

 書類のコピーを見せてもらったことがある。筆圧の強い几帳面な文字で、中学校の教師がMを罵倒したセリフや母に熱湯をかけられたこと、酒田のキスやそのときかけられた生々しい言葉が、ぎっしり詰め込まれていた。元の名前は黒く塗りつぶされていて分からない。あまりにも赤裸々で目をそむけたくなるが、この文字の量は、Mが「過去から抜け出したい」という想いの質量そのものだ。

「これを書いているだけで、腕にかけられた熱湯の熱さを思い出したり、怒鳴り声の幻聴があったり、過呼吸になったりと、かなり苦痛を伴う作業でした。でもこれであの名前から解放されるならがんばろうと思って、必死で書きました。回答を発送してからは不安すぎて『もしこれで認められなかったらどうしよう』と、さらに体調が悪くなってました」

 発送から約一週間後の3月。「名の変更を認める」いう旨の通知が届く。喜びのあまり、胸がふるえて止まらなかった。

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