長年にわたる虐待被害との決別、戸籍の名前を変えた「ボク」のこれから

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この手でつかんだ自由

 2017年3月6日、市役所に出かけて戸籍を変更した。

「保険証とか銀行口座、電子マネーはもちろんですけど、障がい者手帳や好きなアーティストのファンクラブとか、改名の手続きはとっても忙しかったです。でも活字で印刷された新しい名前を見るのは本当にうれしかった。ボクは1カ月に10回は病院に行くんですが、領収書やお薬袋の名前が変わっていたときは感動しました。1カ月以上たっても、袋を見てニヤニヤしていたぐらいです」

 「改名する前のクリスマスに、父がわざわざ“前の名前”が入ったポーチをプレゼントしてくれて……なんだかなってイラつきましたが」と苦笑する。

 名付けた方は複雑な気持ちだろうが、Mは、両親やおとなに抱いていた「怒らせたくない」「捨てられたくない」という感情を振り切り、自分の幸せに目を向けるようになったのだ。

 Mは、晴れて「翼」になった。新しい名前を手に入れ、生まれ変わったのである。

 もちろん名前を変えただけで、すべての傷が払しょくされるわけではない。トラウマとの戦いは続いている。しかし、「精神的にかなり安定しました」と、翼は笑う。

 11カ所の「家」で暮らしながら、想像上の部屋にこもった10年前。そして今、翼が安らぎを感じる場所は、父の家にある2畳半のクローゼットの中だ。その外に自分の部屋は用意されているが、「日光が眩しいから」とカーテンを閉めきり、寝るときだけ“外”に出る。

 それは窮屈な生活に思えるかもしれない。だがクローゼットの中は、以前Mが描いた真っ暗な「虚ろな部屋」とは違う。照明が取り付けられ、大好きなアーティストのポスターや手作りのアクセサリーなどが賑やかに壁を飾っている。のびのびと絵が描ける色鉛筆も健在だ。

 二十歳になったばかりの翼だが、まだ社会に出て働くといった自立の方法については、目途がたっていない。複数の障がいを抱えた上での働き口を探すのは、そう簡単ではない。しばらくは障がい者年金や、父の助けが必要だろう。

 先日、翼に「いい絵を描くのだから、ネットやギャラリーで売ったらどう?」とけしかけると、少し照れながら「気まぐれにしか描けないけど、考えてみます」と言った。いつか、新しい名前がアーティストとしてのサインとなり刻まれていたら――と勝手に願ってしまう。いつか翼が、どこへでも好きなところへ飛んでいける自由を見つけられますように。

 その膝の上では、「最近よく来る」という黒猫が安心しきって体を預けていた。

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<翼さんのインタビュー第一〜三回はこちらからどうぞ>

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