
トランス男子のフェミな日常/遠藤まめた
先日行われた参議院選挙で、山本太郎さん率いる「れいわ新選組」から二人の重度障害者が当選を果たした。「特定枠」という制度をうまくつかったアファーマティブ・アクションなんて山本太郎さんしかきっと思いつかなかっただろう。今回私は別の政党に投票したが、「れいわ」のおかげで国会の中にこれまで重度障害者がいなかったことそのものに気がつくことができたし、当選した船後靖彦さんや木村英子さんが今後どんどんテレビカメラの前にうつることで、日本社会の「普通」「あたりまえ」が良い意味で揺らがされるとよいな、と今のところ期待している。
これは、障害を持っている人たちがバリアの存在をメリメリとぶち壊してくれたら、重度障害者ではない自分たちにとってもメリットがあるだろう、という希望である。あくまで自己利益のハナシなので「障害者に背負わせてないで自分でやれよ」と批判されたら、たぶん500%の確率で「そのとおりです」としか言えない。
人は、わりと勝手に、自分が属していない集団の人たちに共感する。それが当事者たちにとって心強く感じることもあれば、迷惑に働くこともある。
ちょうど去年の今頃は、「新潮45」(新潮社)がガンガンに燃えていた。「子どもを持たない、つまり生産性がない」LGBTの支援のために税金を使うべきでない、という国会議員の発言に対して、たくさんの人がふざけんな、と怒っていた。多感なLGBTユース(議員の発言に心底傷ついている人も少なくなかった)と関わることの多い当事者のひとりとして、いまでもあの国会議員の顔を思い出すだけでムカついてしかたないが、唯一すくわれたのは、あの夏には当事者以外に怒ってくれる人がとにかくたくさんいたことだ。ちょっと前までは政治家になにを言われても怒っている人は当事者ばかりで、メディアも注目しなかった。発端となった事件そのものより、声をあげても孤立無援という構図のほうが、絶望している人間にとってはときに残酷だ。だからあの夏、おそらくLGBTの権利について日頃そこまで考えたことのない人たちが勝手な判断でそれぞれ立ちあがり、自分ごととして危機感を持ってくれたことは、個人的にはとてもありがたいことだった。
いっぽう、非当事者の共感ボルテージが勝手に高まると、当事者が置き去りにされるという本末転倒な現象がおきてしまうこともある。いちばん狙い撃ちされ、傷つけられやすいのは勝手に共感している主流派の人たちではなく当事者たちなのだから周りの人たちにはていねいな議論につきあう覚悟が必要だ。
そもそも当事者といっても一枚岩ではなく、ていねいな議論は、当事者間であっても難しい。国会に当事者を送りこむことは大切で、当事者不在のまま永田町で議論が行われること自体が不当というのはそのとおりなのだが、ひとりやふたりの人間に、ある集団をレペゼンさせること自体も、かなり困難なことでもある。
以前、アメリカ大統領選で、初めて女性の大統領になるかもしれないと期待されたヒラリー・クリントンの不支持を表明したフェミニスト作家のベル・フックスは「大事なことは女性の大統領を選ぶことではなく、フェミニストの大統領を選ぶこと」と話した。政策を進めるにあたって、「当事者性」以外にも大切なことはある。そのあたりのバランスをいちばんシリアスに見ているのは、実は長年政治に失望してきた当事者たち自身かもしれない。
今回の選挙結果を受けて、私の知人の重度障害者は、はやくも憂鬱な気分になっているという。すでに選挙期間前から障害者に対するバッシングが巻き起こり、今後ますますその動きはひどくなっていくことが目に浮かぶからだ。出る杭は打たれるニッポンで、障害者が自分の権利を主張することは、今後さまざまな衝突を生むだろうし、それこそが相模原の事件のように「生産性」で人が殺される国がこれから乗り越えなくてはいけない課題だ。
きっと多くの人が希望を感じた「当事者議員」誕生のニュースだからこそ、希望だけでなく戸惑いや怒り、知恵も分かち合える社会にできたらと思うし、障害者だけでなくいろんな人がハッチャケられる社会だといいな、と願う。賃金上げろとか、夫婦別姓を選ばせろとか、いらない性別欄は無くせとか、いろんな種類の杭がたくさん出ていたら、打つ側もだんだん諦めるんじゃなかろうか。