トランスジェンダーと「ともにある」ために
したがって、「社会的な死」に直面しているトランスジェンダーが十分に人間として受け入れられる社会づくりが必要になってくる。では、「社会的な死」に直面しているトランスジェンダーと「ともにある」社会とはどのようなものなのだろうか 。
少し話がそれるが、精神疾患者のためのあるイベント、「カウンターたちの朗読会」に参加したとき、とても感動したことがある。そのイベントはただ「生きづらい」ということを表題にし、詩を朗読したりパフォーマンスをしたりすることで参加者たちをエンパワメントするイベントだった[v]。それゆえ、精神疾患者だけではなく、身体障碍者や知的障碍者も集っていた。この日本社会を生きることに困難を覚え、その痛みを共有したいと思う様々な人々が障害やカテゴリーの境なく募っていた。
この光景を目にしたとき、私はトランスジェンダーが直面している「社会的な死」を思い出した。もし、彼女/彼らがここにいたら、居場所を感じ、「死」へと向かうことは無かったかもしれない。
そう考えると、トランスジェンダーと「ともにある」ということは、ただ支援者と被支援者の関係ではなく、互いの社会的な性に関する「生きづらい」という「社会的な死」の語りの中でゆるやかに繋がっていくことであるように思われる。
カウンターたちの朗読会は終息していったが、メインメンバーの朗読詩人、成宮アイコは、活動を続けながら、『伝説にならないで』という詩集を今月出版することが決まっている[vi]。
「伝説」とは何だろうか。それは、死後に、当人の意志とは関係なく特定の人物の死を「記憶」に変え政治のような運動のためのイデオロギーとすることだろう。。例えば、映画『ボーイズ・ドント・クライ』において、そのレイプまがいの死をもってトランスジェンダー差別への抵抗の象徴となったブランドン・ティーナのように。彼はただ、伝説のトランス男性ではなく、一人の男性として生き弔われたかったはずだ。
アイコちゃん(この呼び方を許していただきたい)はそうした「死」をもって「伝説」となることに抗う。だからアイコちゃんはこう呼びかける。
そしてわたしも、死んで伝説にならなくてもいいから、次の休みにたい焼きやホットケーキを食べにいくような約束がしたいのです。ついうっかり忘れてしまってもいいような、できるだけ簡単な約束を[vii]。
私も伝説になりかけた。何度も何度も。おそらく、これからも。それでも、私を伝説にしないような声たちが私を支え、トランスジェンダー差別に立ち向かわせてくれた。
「できるだけ簡単な約束」をして、トランスジェンダーが日々をつむげるようにする必要がある。フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスによれば「約束」とは「祈り」なのだという。トランスジェンダーと「ともに」祈ることが今、求められている。
[i]https://anond.hatelabo.jp/20190109004202 を参照。
[ii]https://www.yourdictionary.com/social-death 例えば左記を参照。
[iii]プリーモ・レ―ヴィ『溺れるものと救われるもの』竹山博英訳,朝日新聞出版,1986,130
[iv]http://propaganda-party.com/news/68/category:1 を参照。
[v]http://www.loft-prj.co.jp/schedule/loft9/62934 を参照。
[vi][vi] http://www.libro-koseisha.co.jp/literature_criticism/densetsuninaranaide/ を参照。
[vii][vii] https://rooftop.cc/column/narumiya/190116223000.php を参照。
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