社会

異なる主張をバカにし、敵味方で二分する「ネット世論」の現状

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「Getty Images」より

 子どものころ、時代劇が好きでよく見ていた。そこでよく聞いたことばに「火事と喧嘩は江戸の華」というのがある。当時でもすでに古い物言いになってはいたのだろう(江戸ははるか昔になくなっていた地名だし)が、たまには実社会でも見かけたりしたように思う。しかし今、当時よりしばしば、この表現を思い出すことがある。といっても時代劇ではなく、ネットの中での話だ。「炎上とバトルはネットの華」というわけだ。

 「華」かどうかは別として、実際ネットでは日々、さまざまな炎上やバトルが展開されている。それぞれ原因や経緯はさまざまなので一概にはいえないが、それらの多くに共通するのは、相手を見下したり罵倒したり、揶揄したりするような表現が多用されていることだ。

 かつての「2ちゃんねる」に代表されるようなネット文化の中で、ふつうの人なら人前では使わなかったような乱暴なことば、汚いことばが当たり前のように使われる風土が醸成されてしまったのかもしれない。面と向かってはとても言えないようなことも、画面に向かって書き込むのは気楽にできてしまうからだろうか。社会的地位に関係なく「率直に」コミュニケーションできるインターネットの自由を体現するスタイルと考えられたのだろうか。

 ともあれ、売り言葉に買い言葉、不必要にどぎつい罵倒、知りもしない相手をこういう人物に違いないと決めつけてその人格や能力、業績をまるごと否定する言説、議論に関係ない相手の属性やバックグラウンドをあげつらう揶揄など、ネット上で粗野な言説を目にしない日はない。

 この夏開催されている現代アートの祭典『あいちトリエンナーレ2019』の中の『表現の不自由展・その後』をめぐる騒動でも、こうした言説が多くみられた。

 この展覧会は、「日本における言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された『表現の不自由展』をアップデートするものだった。

 その中で批判を集めたのは「平和の少女像」と題した作品だ。韓国のキム・ソギョン氏・キム・ウンソン氏が制作したもので、彼らが2011年に制作し在ソウル日本大使館前の歩道上に設置されたものと同様、「慰安婦問題を象徴する少女像」として知られている。

 これに対して、電話やメールなどで数多くの抗議が寄せられただけでなく、「ガソリンを持って美術館に行く」との脅迫もあり、また展示会場において像の頭に紙袋をかぶせるなど実際の行動に出る人もいた。また、名古屋市の河村市長は「国などの公的資金を使った場で展示すべきではない」などとして展示中止を要請、菅義偉官房長官も補助金交付につき慎重に判断する考えを示すなど、政府・自治体などからの事実上の圧力とも受け取られかねない動きもあった。こうした一連の流れの中で、展示はわずか3日で展示中止に追い込まれたのだった。

 この問題に関しては、多くの人々からさまざまな意見が出されている。私自身にもいくつか主張はあり、別の場で出したりもしているが、ここではその論争自体に口を出すつもりはない。ここで取り上げたいのは、この一件でも意見の方向性を問わず噴出した、異なる主張の人に対する無礼な態度だ。

 そのような態度が出てくるのは、自分は正しいことを主張しているのにそれを理解せず、愚かにも異なる主張をする者がいる、あるいは悪辣な動機で否定する者がいる、などと考えるからだろう。

 意見の違いはどこにでもあるものだが、自分と異なる主張をしているのはこいつ(ら)の知識や理解が不足しているからだとか、利己的な考えに凝り固まっているんだろうとか決めつけるのは早計だ。たいていのものごとは(それが重要な問題であればあるほど)複雑な構造を持つものであり、それに対する意見も、人の多様性を反映して多様なものとなることが少なくないからだ。

 しかし、そのことを自らが直面する問題にあてはめて理解することは、そう簡単ではない。自分や自分に近しい集団と異なる意見を持つ人や集団に対して、知識や能力が不足している、誤った情報や意見に影響されている、などといった認識を持ちやすい傾向は、典型的な認知バイアスであり、その人の意見や属性に関わらず幅広く見られる。端的にいえば、人は「なぜ世の中にはこんなにバカが多いのか」と考えがち(つまりそう思う相手からもそう思われている)なのであり、そしてそのこと自体になかなか気づけないのだ。

 しかし、社会はそうした「バカ」を思うようには罰したり排除してくれるようにできていない。もちろんそれは自分以外の人々が「バカ」ばかりだからではない。何が社会全体にとってよいことなのかは、そう自明ではないからだ。

 誰かが「正しい」と考えることをそのまま社会の全構成員に押し付けたり、従わない構成員を強制的に排除したりするしくみがあれば、それはしばしば暴走したり失敗したり悪用されたりする。実際、歴史を振り返ればそうした事例は少なからずあり、人類は悲惨な体験を繰り返してきた。

 そうした失敗を避けるために、私たちは、めんどうでも、時間がかかっても、完全にはできなくても、ときには失敗しても、何かを決める際には議論を通じて社会的合意を形成する。そのステップをていねいに踏んでいくことが必要だと学んだのであり、それこそが表現の自由を含む現代の民主的な社会制度の設計思想の根っこにある知恵だ。そのために不可欠なのが、異なる意見の持ち主に対する最低限の礼儀だ。自分が間違っている可能性は常にあり、またどんな相手からも学べることはある。

 しかし、汚いことば、強いことばは、そうしたていねいなプロセスを根こそぎ破壊する。自分だけはものごとを正しく判断できるが相手はバカだ(だから無礼になってもしかたない)、と考えがちだが、これまた典型的な認知バイアスのひとつだ。しかも、それによって自らが優位に立つことは難しい。異なる意見の人や集団に対してこうしたことばで罵倒したりバカにしたりすれば、自らの主張が社会に受け入れられる可能性はむしろ低下する。それは、その相手との合意が不可能になるからというだけではない。周囲でそのやりとりを見ている人たちの信頼をも失うからだ。

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