異なる主張をバカにし、敵味方で二分する「ネット世論」の現状

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 異なる意見を持つ人とのコミュニケーションを戦いになぞらえるなら(「バトル」ならまさに戦いだ)、それは敵をやっつける戦いではなく、賛同する仲間を増やす戦いといえる。その中では口汚く罵り合う人々は、そこに参加していない人からみれば、右だろうが左だろうが、女性寄りだろうが男性寄りだろうが、増税反対だろうが賛成だろうが、オタクだろうがリア充だろうが、まとめて同類として扱われ、「近寄ってはならない人々」として避けられてしまうだろう。

 思えば、時代劇でよく見た、主人公が切れのいい啖呵で相手をやりこめる図というのも、相手をバカにした物言いや口汚い罵倒の類が多かった。あれを見ながらすっきりする思いがしたのは、ドラマだからだ。現実ではないし、悪役が誰であるかはっきりしている。ドラマの中の悪人は悪いことしかしないから、どんなに手ひどくやりこめられても安心して「ざまあみろ」ということができる。

 しかし、現実社会はそうではない。悪いことしかしない根っからの悪人などそうそういるものではないし、バカだと思っていてもよくよく話してみればそれなりに事情や意見があったりする。社会をよくしたいという思いは共通している、などということも少なくない。ある面では異なる主張をしていても、他の面では同じ主張であるかもしれない。逆に、友人でも完全に意見が一致することはそう多くない。

 また、たいていの問題は、複数の論点が重なっている。上掲のあいちトリエンナーレの例でいえば、少女像の是非や慰安婦問題への態度をめぐる論争はそのひとつにすぎない。表現の自由と規制の関係、アートと政治の関係、脅迫行為への組織的対応のあり方と個人の弱さ、そもそもアートとは何かなど、いくつもの論点が重なっており、考え方には無数のバリエーションがありうる。

 そんな中で、誰かを自らの敵か味方かで二分し、敵の主張は全否定、味方の主張は全肯定というように態度を単純化していったら、社会の分断が進み、ものごとは何も進まなくなる。誰にでも最低限尊重されるべき人権があり、それを無視することはできないからだ。社会は停滞し、問題は硬直化する。そうした風潮が蔓延すれば、その影響は計り知れないほど深刻だ。少なくとも、誰かをバカにして留飲を下げていれば済むような軽い問題ではない。

 いうまでもないが、議論や批判を否定するわけではない。意見の相違は社会の常であり、批判なくして社会の発展はない。しかし、そのために罵倒や揶揄などの粗野な言説は必要ない。むやみに使おうとするのはやめてはどうか。もちろん、そうした汚いことばも表現の自由の一部ではある。しかしそれを行使することの弊害(場合によっては民事刑事の法的責任を問われるが、何より社会の分断を深刻化させることが問題だ)を考えれば、可能な限り控えるべきだ。それは言論の弾圧ではない。核兵器を持っていても使わないように、自ら控えるのだ。自分が間違っている可能性に謙虚に向き合うなら、自然と出てくる考え方ではないか。

 このような態度は、誰もが自由に発言でき、メディアを通じてそれを広めることが可能となった今、かつてないほど重要となってきている。「万人の万人に対するバトル」から脱し、自由を自由であらしめるために、自らを律することが求められている。

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