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妄想食堂「悲しい夜に飲む魚のスープと、インターネットの海を漂う誰かの悩み」

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 悲しい夜にはスープが飲みたくなる。どん底まで落ちて、芯まで冷え切った体を温めるための、熱くて切ない飲みもの。だけどそれは、朗らかな肉の味がするスープではない。物悲しく死の匂いをまとった、魚の出汁のスープなのだ。

 もちろん、肉のスープはよいものだ。牛や豚や鶏を煮込んでもいいし、ハムやベーコンの切れ端を放り込んでも、コンソメやブイヨンを溶かしてもいい。あの逞しいけものたちから滲み出るスープは、ほのぼのと明るく、脂がのり、健康的で、生命力に満ち、そっと口に注ぐだけで私の心を励ましてくれる。一口飲めばもう一口ほしくなり、お腹がすっかり温まるころには、立ち上がる元気もついていることだろう。活き活きと何かを与えてくれるもの。けれど、それに手を伸ばす勇気が出ない夜もある。そんなときだ、私が魚のスープを作るのは。

 生の魚はなかなか買わないから、私はいつも瓶入りの魚醤を使う。魚たちの命を凝縮した、塩辛くかぐわしいエキス。一滴たらせば周囲が海になるし、指先につけば私が魚になる。癖になるにおいが恨みのように染み付いていつまでも取れない。あとは水、トマトと乾燥スパイス、塩、胡椒、お醤油をちょっと。チューブのにんにくやレモンを入れてもおいしい。

 小さな蛍光灯だけを点けたキッチンで一口啜る。出来上がった魚のスープは寂しく孤独で、打ちひしがれた味がする。複雑に入り組み、混じり合い、織り重なった旨味。それが喉の奥へ染み入るとき、ものすごく泣きたくなる。

 北の方の国では、魚のスープをよく食べるらしい。寒くてお日様の少ない国。冬の気鬱に馴染みが深い国。耐えがたい夜に寄り添い、生き延びさせてくれる魂のスープ。なるほど、そこに住む彼らにはこれが必要だと思う。

 魚たちから浸み出す、どこか無残な悲しみの気配。その正体について考えるとき決まって思い出すのは、スーパーマーケットの売り場に横たわる彼らの亡骸のことだ。冷たい体。ぬろっとした目、小ちゃな歯がぎざぎざに生えた口、めまいがするほど精巧なひれ、しっぽ。その姿を見るたびに「死んでる」と思う。精肉のブロックを前にしたときとは明らかに違っている。お肉は食べ物。お魚は、食べ物と死に物の間。目をつむらせてあげたいけれど、魚には瞼がない。

 あるいは、焼いた魚を解体するとき。身から骨を外すあの作業が、私にはとてもむごたらしいものに感じられる。鋭くて嘘みたいに儚い、あの小ちゃな骨。プラスチックの模型よりもずっと繊細で、ちょっと力を入れるだけで壊れてしまう。脆い背骨を手折るのも、糸のように細い小骨を奥歯ですり潰すのも、驚くほど容易い。その感触にいつもぎくりとする。ささやかで生々しい、罪悪の感触。

 骨つき肉から身を引き剥がすときはあんなに残酷な気持ちにはならない。肉を食べるのに伴うのは、もっと力強い高揚、あるいは決闘の興奮だ。姿勢を整え、相対し、取っ組み合い、奪い合う。だから肉を食べると人は饒舌になるし、魚を食べるときには沈黙してしまう。まるで黙祷を捧げるみたいに。なすすべもなく押し広げられ、突き回され、ほじくり返された彼らの遺骨が、皿の隅に無残な姿で積み重なっている。白い目。声もなく蹂躙されるもの。そう、彼らは生まれたときから声を持たないのだった。

 暗いキッチンの片隅で、私は繰り返し繰り返し彼らのスープを口元に運ぶ。蹂躙されるものの悲しみが、私の内側に深く、静かに響きわたる。ため息をつく。またスプーンを口に持っていく。一息に飲み干せるようなものではない。ゆっくりと時間をかけながら、弱々しく愚鈍で、見るに耐えない彼らの悲しみを啜っている。

 たとえば、私を元気づける言葉が重たく胃にのしかかるとき。明るく輝かしい物語から目を背けずにはいられないとき。親しい人ほど顔を合わせるのがつらく、よろこびを口にすることが、どうしてか躊躇われるとき。暗い部屋で一人きりの私に寄り添ってくれるのは、インターネットの海を漂う誰かの悩みや苦しみだったり、重く救いようのない物語だったり、冷たく無機質な音楽だったりする。それらは決して傷ついた人間を励まさない。何も与えず、ただ静かに寄り添うだけ。だけどそれでしか救われない夜というのも、確かに存在するのだ。

 だからこの夜には魚のスープがほしい。けれど肉にせよ魚にせよ、私が彼らを一方的に食いものにしているという点では、変わりがないのだった。悲しみに浸るという行為には、そういう身勝手なところもある。

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