LGBTに関するキワドイ質問への反応の仕方は、関係性によっても変わる

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トランス男子のフェミな日常/遠藤まめた

 先日ある勉強会で性の多様性について一通り話した後に、ひとりの若者から質問を受けた。「種の保存とLGBTの関係についてどう思いますか」。自然界の生き物は種の保存の法則に沿って生きているはずなのになぜ性の多様性が生じるのかが分からない、ということだった。

 どきっとする質問だ。科学を引き合いに、ある種のマイノリティが「劣っている」とか「間違っている」とか言われて迫害される歴史は過去にいくつも例があり、障害者差別や人種差別につながってきたからだ。

 私は大学時代に獣医学科を専攻していたので、生物学的な観点から彼に答えてみることにした。「種の保存というのは、『すべての個体が自分の子どもを持とうとすること』ではなくて、もう少し複雑な概念」「自然界には同性どうしの性行為や同性のペアは何千という種で報告されている」「進化の過程で、種にとって妨げとなるような形質はそもそも淘汰されていくので、どの社会でも性の多様性が確認されるのは、それが種にとって有利な形質だからと考えることもできるはず」ーー。

 ここまでが生物学的な話ね、と説明をしたあとで「別の観点から見ると、このような問いに不安を持つ人もいる」と添えた。質問した彼は、スッキリしたとよろこんでくれた。これまで彼の疑問に答えてくれる人はいなかったらしい。

 帰り道、進化論についてウェブで復習をしながら私は悶々としていた。「そういう質問はキワドイよね〜」と反応するだけでも、ひょっとしたら十分だったかもしれない。そもそも生物学と人権を結びつけて語ろうとする人たちは「生産性発言」で炎上した自民党の杉田水脈議員を例にだすまでもなくだいたいヤバイのである。先日も鹿児島県で「男女という自然の摂理を広めるべきだ」と発言した78歳の議員がぼこぼこに批判されていた。「このような質問はしちゃいけません」という空気を察することも、ある種の教養的態度とも言える。

 でも、教養的態度って一体なんだろう、とも思った。

 疑問を持っても口にしないとか、よくわからないのにわかったふりをするとか、そういうことだろうか。そんなマジョリティばかり増えたって、世の中マシにならないのではないかとも思った。思い返せば、自分もかつてキワドイ質問をたくさんしてきたのだ。

 今では赤面するしかないが、高校生の頃、独身だった教師に「なんで先生は結婚しないのか」と尋ねたことがあった。ハラスメントと言われたら言い訳のしようもない質問だったが、その教師はひとこと「人を愛するのは結婚だけじゃねぇんだよ」と答えてくれた。キリスト教の学校には毎朝礼拝があったが、クリスチャンではない教師が出席しているので「クリスチャンではないのに礼拝に来るのはなんでですか」と聞いてみたこともあった。「信仰はいろいろでも、他の人の考えを聞くのは参考になります」と、その教師は教えてくれた。いずれも10年以上経った今でも鮮明に覚えている答えで「その質問はハラスメントですよ」と言われるより、よっぽど良かった。

 キワドイ質問が脅威にならないのは、差別や偏見がこわくないときだけである。

 もし冒頭の若者が40歳以上の政治家だったら、同じように親切にはできなかっただろう。オンラインのやりとりだったら、皮肉めいたツイートを拡散させて、彼の学問的好奇心を打ち砕いていたかもしれない。

 そう思うと、彼が20歳前後の若者で。議員バッジをつけていなくて、リアルでのやりとりができたことが本当に良かった、と思うのだ。

 「種の保存とLGBTについてどう思いますか」という質問への答えは、たぶん相手との関係性によっても変わってくる。

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