
映画『沈没家族 劇場版』監督の加納土さん
私は、“理想のお母さん”になれるのだろうか。自分の母親を眺め、何度かそう思うことがあった。
週5で仕事をこなしながら家事・育児を担い、休日であるせっかくの土日も、家の掃除や、私や弟の部活の試合を見に来てくれたり、送り迎えをしてくれた母。
家事育児も仕事も完璧にこなす私の母は、まさに大多数の人が描く“理想の母親”だった。
けれど私は、物心がついてから一度たりとも母が1日中のんびりと過ごす姿を見たことがないし、母が趣味を楽しんでいる姿も記憶にない。
母親になったら、自分の時間のほぼ全てが子供のための時間になる。
大人になった私は、「それが当たり前」「母親が自分の時間を作るなんて贅沢」という世間の風潮を認識しながらも、「じゃあ“理想の母親”になりたい?」と自分自身に問うと、少しだけ気分がどんよりしてしまうのだ。
私は、自分自身を幸せにできないと、自分の子供も全力で愛せないと思っている。でも今、自分の時間を愛するお母さんたちの中には、世間の「それじゃあ子供がかわいそう」という意見に胸を突き刺される人もいるかもしれない。
結局、私は、世間が描くような“理想の母親”になれるイメージがつかないままでいる。
そんなとき、映画『沈没家族 劇場版』を知った。これは、94年に東京・東中野に実在した、およそ100人もの大人たちが子育てに関わった実践的な共同保育の場、その名も“沈没家族”で育てられた子供――現在25歳の加納土(かのう・つち)監督が、大学の卒業制作として発表した作品を、劇場版として再編集した映画だ。
当時1歳の土監督を抱えた母・加納穂子(かのう・ほこ)さんという、ひとりのシングルマザーによる、血の繋がらないたくさんの人達で子供を育てるという試み。
いったい、それはどんな場所だったのか。自分の子供を育てるのに、他人の手を借りても良いのだろうか。そう思って、加納土さんに当時の話を聞いてみた。
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●映画『沈没家族 劇場版』
1990年代半ば東京は東中野。小さな街の片隅で、様々な若者がひとつの“家”に寄り合い子育てに奮闘した実践的共同保育「沈没家族」。そこで育った監督自身が、20年の時を経て“家族のカタチ”を見つめなおして行くドキュメンタリー作品。
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●加納 土(かのう・つち)/監督
1994年生まれ。現在25歳。神奈川県出身。 武蔵大学社会学部メディア社会学科の卒業制作として本作の撮影を2015年から始める。卒業後はテレビ番組の制作会社に入社。『沈没家族 劇場版』が初の監督作品となる。
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――まず、映画『沈没家族 劇場版』が生まれた経緯を教えて下さい。
土さん:僕の母親である加納穂子さんは、写真の専門学校に夜間生として通っている時に、僕を妊娠したんです。しかし、父親と一緒に子供を育てていくイメージがどうしても持てなかったようで、生まれて8カ月経ったときに、母子家庭として2人で東京の東中野に引っ越しました。
でも当時の穂子さんは、夜間は専門学校に通い、昼は働かなければならなかった。1歳の子供の面倒をどうやってひとりで見ればいいのか? と考えた時に、「いろいろな人と子供を育てられたら、子供も大人も楽しいんじゃないか」と思いついて、”沈没家族”が生まれたそうです。

1歳くらいの土さん(C)おじゃりやれフィルム
――穂子さんはどうやって参加者を集めたのでしょうか。
土さん: 穂子さんは「私の子供を育てませんか?」というチラシを手書きで作って近所の電柱に貼ったり、90年代当時に中央線界隈で集っていた「だめ連」という団体にチラシを持っていったりして、共同保育人を募ったそうです。最初に集まったのは10人でしたが、口コミ形式で増えていって、僕を育てるのに関わってくれた人たちは最終的に100人くらいに膨れ上がりました。
昔はインターネットが普及していなかったから、友達のそのまた友達~という風に話が広がったそうです。共同保育人はみんな赤の他人というわけではなくて、なんとなく知っている、っていう人たちだったんですよね。僕は小学校3年生くらいまで”沈没家族”で育てられましたが、とくに危険な目に遭うことはありませんでした。
僕が覚えているのは、いろんな大人に銭湯に連れて行ってもらったり、プラレールで遊んでもらったり。運動会には沢山の人が駆けつけてくれて、とにかく賑やかでしたね(笑)
穂子さんはその後、3組の母子家庭と3~4人の独身の若者と一緒に、3階建てのアパートを借り切って、大規模な共同生活もしていたという。保育料的なお金のやりとりは一切なく、「僕たちが住んでいる家に来た人が、できる範囲や時間で面倒を見るという感じで回していたようです」。
ちなみに当時、穂子さんが配ったチラシには、こう書かれていた。

穂子さんが配ったチラシ(C)おじゃりやれフィルム
――”沈没家族”は、言い換えれば”共同保育”という形態にもなると思うのですが、参加者は何を目的に集まったのでしょうか。
土さん:穂子さんの元に集まった「だめ連」という団体は、社会的な人生の成功レールが敷かれていた当時、その中に入れない(入らない)人が集まった「生き方模索集団」という形で、当時はメディアにも取り上げられている団体でした。
そんな風に、結婚や就職などがまだ考えられない人達にとって、”沈没家族”という場は「子供を育ててみるチャンス」「そこに行けば誰かしらいて、人と触れ合うことができる場」というところが魅力だったのかもしれません。個人的には、沈没家族の魅力はシステム的じゃないところだと思っています。たとえば、カンパでビールを買って、わらわらと人が集まっているような、居心地の良い場所。
緩く始まった参加者たちでしたが、共同保育を通して次第に家族のような関係性になっていった、というのが正しいでしょうか。

沈没家族の様子。向かって左の男の子が土さん。(C)おじゃりやれフィルム
――土さんは、母親である穂子さんが学校や仕事に行っている中、不安じゃありませんでしたか。
土さん:子供だったので、当時の記憶はそこまで鮮明ではないのですが……でも、沈没家族のメンバーいわく、「土は、楽しそうに遊んでいてもどっか一定のラインで(母親が)帰ってこないと不安になる」ということはあったみたいです。
穂子さんにとっても、「自分の時間がほしい」という気持ちと、泣いている子供を人に託して夜間の学校に行くことについて、悩んでいたのかもしれません。
――映画にも登場していた、お父さんの「山くん」との関係性はどんなものでしたか。
土さん:穂子さんは、人を募って共同保育をするにあたって、そのなかに山くんもいるような環境になれないかと当初は考えたみたいですが、山くんがそれを拒否したようです。山くんがたまにやって来ても追い出すことはないけど、一員ではない、という関係性でしたね。
僕が3~4歳の頃から小学生2年生の終わりまでは、山くんが東中野まで迎えに来てくれて、二人で会うこともありました。
――”沈没家族”で育った土さんにとって、家族とは何でしょうか。
土さん:僕としては、「あなたの家族は誰ですか?」と聞かれて、思い浮かぶ人はいないんです。育ててくれた人たちは全員めっちゃ好きなんですけど、でも正直、家族かどうかと聞かれると、そこは分からなくて。でも、たくさんの人が自分の保育に関わってくれていたのに、「これ以上は家族」「これ以下は家族じゃない」と区別してしまうと、逆に「家族じゃない人」を否定するような気がして。
あと、「家族なんだから」という言葉が、負担になる、人を縛りつけてしまうという側面もあると思うんです。血のつながっている人もいるし、つながってない人もいる。僕にとっては家族って、こんな風にすごく曖昧なもので、「家族とは何か?」と定義を聞かれると、明確には答えられないです。
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