その後、『バリバラ』は、オリンピック柔道の元代表選手で現在は多発性硬化症を患っている大橋グレース愛喜恵氏をモデルに、『24時間テレビ』のような一般的なテレビ番組が障がい者を扱う際の典型的な取り上げ方のパターンを敢えて模倣し、その裏で障がい者本人が敢えてテレビの求める障がい者像を演じていることを炙り出す。
障がいを抱えることで大変な生活を送っているが、家族や周囲の仲間に支えられ、前向きに生きている──典型的な番組はこうした筋書きを障がい者に押し付け、結果的にそれが「感動ポルノ」となるわけだが、彼らもいわゆる健常者となにも変わらないひとりの「人間」であり、考えていることは変わらない。下品なことや邪なことだった考える。それを見なかったことにして、「聖人」扱いすることは、差別のひとつのかたちなのだ。
番組ではその構図を具体的に炙り出す。たとえば、病気を発症したときを回想する場面だ。ディレクターがグレース氏に「相当ショックだったでしょうね」と当時のことを質問するが、それに対し、彼女は「いや、でもその病院にめっちゃイケメンの先生がいて、めっちゃテンション上がりまくりでした」と返答。これは「感動」を狙いにつくられる番組ではカットされるであろう部分だが、こういった部分もまた「生きる」ということであり、そのリアルを意図的に「なかったこと」にするようなコンテンツのつくり方では反感を買うのも当然のことなのである。先に述べたように、それは紛れもなく差別なのだから。
『バリバラ』は『24時間テレビ』にリスペクトを示している
『バリバラ』の挑戦的な放送は大きな話題を呼び、翌年以降も毎年この季節恒例の企画となった。
2017年の放送では「障がい者が頑張っている姿を映すことによる感動の押し付け」を批判。また、2018年には、テレビ放送の手話や字幕の不備について意見が交わされた。
どちらも、裏番組に対して露骨にケンカを売る、刺激的な放送ではある。ただ、ひとつ絶対に見誤ってはならないのは、『バリバラ』が「『24時間テレビ』なんてなくなってしまえばいい」というメッセージを送っているわけではないことだ。
『24時間テレビ』には、「偽善っぽい」「説教くさい」といった理由で批判的な眼差しをもつ視聴者が少なくない数おり、『バリバラ』の皮肉に満ちた企画に対する絶賛には、そうした考えから来ているものも多い。