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「男らしさ」って何? 偏見にまみれた「フツー」を考える/北村紗衣×清田隆之(桃山商事)トークイベントレポート

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(左)北村紗衣さん/(右)清田隆之さん

 「フツーの男らしさ」とはなんだろう。

 そんなことを考えるトークイベントが、8月4日に東京・下北沢「本屋B&B」で開かれた。

 登壇者のひとりはフェミニスト批評家・文学者の北村紗衣さん。映画や小説などの作品をジェンダーやフェミニズムの視点から鋭く分析した著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房 )がヒット中だ。

 そしてもうひとりは、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之さん。数多の女性たちの恋バナ相談で得たエピソードや経験を生かして男性を分析した『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(晶文社)を、7月に上梓した。

 お二人は、WEZZYで連載を担当している。

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(左)北村さんの『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』/(右)清田さんの『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』 好評発売中!

 さて、映画や小説は、「フツー」の男たちをどのように描いているのだろうか。もちろん、現実世界においては、女性同士で集まって彼氏や配偶者の“あるある”話で盛り上がる……なんてことは珍しい光景ではない。

 同トークイベントでは、北村さんのフィクションへのまなざしと、清田さんの恋バナ(ノンフィクション)エピソードの分析を通して、いわゆる「フツー」とされている男性像を読み解いていった。もちろん、決して男性批判を目的とした内容ではなく、会場には男性客の姿も多かった。本稿では、その一部をお伝えする。

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★『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』
北村 紗衣(きたむら・さえ)@Cristoforou

1983年、北海道士別市生まれ。武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。 シェイクスピア、フェミニスト批評、舞台芸術史を専門とする。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』(白水社、2018)、訳書にキャトリン・モラン『女になる方法──ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記』(青土社、2018)など。

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★『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』
清田 隆之(きよた・たかゆき)@momoyama_radio

1980年、東京都生まれ。恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。文筆業。 1200人以上の恋バナを聞き集めた中で見えた恋愛やジェンダーの話をコラムやラジオなどで発信。桃山商事の著書に『二軍男子が恋バナはじめました。』(原書房)、『生き抜くための恋愛相談』『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』(ともにイースト・プレス)、トミヤマユキコさんとの共著に『大学1年生の歩き方』(左右社)がある。

フィクション(作品)と恋バナ(現実)の「男らしさ」は、どう違う?

北村:『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』はフェミニスト批評という批評テクニックのひとつを使って、小説・映画・舞台芸術・ネットのコンテンツなどを同じようなテクニックで何でも切れますよというということで書いた本です。
大学の卒論で映画をテーマにしたいという学生がたくさんいるんですけれど、映画批評をするということがどんなことか、あまりピンとこない学生が多いんです。そこで、「これを真似て書け!」という本を作りたいなと思って、私が一番得意なフェミニスト批評の技術を使って書きました。
 それから、私がフェミニストだというのがありまして。「フェミニズム=面白くない」と思っている人も多いんですけど、フェミニズムの手法で作品を批評すると結構面白いんですよ、ということを書きたいなと思ったんです。

清田:『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』は、「女性たちの目に映る男の姿」をサンプルに、男性がやらかしがちな問題について当事者目線から考察した本です。桃山商事ではこれまで1200人以上の女性から恋愛・結婚にまつわる悩みや不平不満を聞いてきたのですが、中には壮絶な話もありますが、多いのは圧倒的に日常的なエピソードなんですね。
 例えば「夫が皿を洗うんだけれども、いつもすすぎ残しの泡がくっついていてムカつく」とか、「トイレットペーパーを替えるタイミングなのに、2センチだけ残して芯を変えない」とか、そういう身近で生々しい話がとても多い。カップルが破局することのたとえで「コップの水が溢れる」というフレーズがありますよね。あれって「そろそろ我慢の限界」という“表面張力”の部分が注目されがちですが、そもそも「コップの水」とは何を指していて、それはどういうメカニズムで溜まっていくのか……って話だと思うんですよ。そういうことについてひたすら考えた一冊になっています。
 北村さんの著書には、「男らしさについて考えてみよう」という章がありますよね。チェーホフやスタインベックの作品、あるいはアメリカ映画などに登場する男性たちをフェミニスト批評の観点から読み解き、そこから見える「男らしさ」の問題について考えるという内容でした。原作の中ではとくに風刺的に描かれているわけでもない男性の登場人物たちが、フェミニスト批評にさらされた途端、様々な“男性問題”を抱えた男たちに見えてくるところがとてもスリリングでした。漠然とした質問になりますが、北村さんは「男らしさ」についてどう思いますか?

北村:作品のなかには「男らしさ」を無批判に描いているものと、登場人物の姿をリアルに描きつつ作者は一歩引いて見ているもの、この両方があると思うんですね。
 たとえば、ジョン・スタインベックの小説『二十日鼠と人間』(1937年)と、アントン・チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』(1899年)というふたつの作品には、いわゆる”キモくて金のないおっさん”が出てきて、非常に社会的、経済的に苦しい状況に置かれている――つまり、人生が詰んでいるんです。チェーホフは多分フェミニストではないと思うんですけれど、異常に人間を見る目が厳しくて、出てくるみんなが人生詰んでるんですね。なぜそうなってしまうのか突き詰めて考えると、「男らしさ」でも「女らしさ」でも、意識しないで社会的モデルに囚われていくと、そうなってしまうということが描かれているんですよ。
 シェイクスピアの『ハムレット』には、「芝居の目的は自然に鏡をかかげること」だという台詞がありますが、私たちは鏡である作品に映る人間の“似姿”を見て、身を整えるわけですよね。殆どの作品というのは、内省するための鏡として見ればいいんじゃないかなと私は思っています。

清田:僕は恥ずかしながら、著書内で取り上げられている作品でまともに観たことがあったのは映画『アナと雪の女王』(2013年)くらいで(笑)、その他の作品については全然知らなかったんです。それなのにめちゃくちゃ楽しく読めるっていうのが不思議でした。北村さんが探偵のような手つきで各作品から細かなサインや手がかりを見つけてきて、それを読者に手渡してくれる──そんな感覚になる本だと感じました。それを受け取ると自分の中に新たな視点がインストールされ、「そういえばあの映画のジェンダー観も変だと思いませんか?」「こないだこういう人に会ったんですけどどう思いますか?」って、いろいろ北村さんに話しかけたくなるような感覚に陥って、そこがこの本の愉快というか、面白いところだなと思いました。

北村:作品をひとつも読んだことがなくても、手に入りやすいなら見てみようかなと思う方がいてほしいなと思って書いたので、全然知らない方に読んでいただくことは嬉しいです。清田さんの本は、男性の内省を促す内容がすごく新鮮ですね。ローラ・ベイツの『Everyday Sexism』(2014年)という本があるのですが、日本で同じことをやっている人がいたんだ、と思ったんです。
 これは、女の人たちが普段経験している、裁判に訴え出るほどではなくてもイヤな感じの、セクシズムとか性差別とかセクハラとか嫌がらせとかを集めたもので、かなり尖った本なんですよ。
 また、『Everyday Sexism』は、どちらかというと女性たちがどうやって社会改革するかということに関心が向かっているんですが、清田さんの本は男性に向けた内容でやってらっしゃる。

清田:女性たちの不満や疑問に向き合うという構造ゆえか、ひたすら反省していくみたいな本になってしまいました(笑)。ただ、恋愛相談の現場でそういう気持ちになることは本当にしょっちゅうあって、例えば最近はマッチングアプリや婚活サイトを使って知り合った男性との関係に悩む女の人から相談を受けることが増えているんですが、初対面で「あなたは東京を離れて僕の地元に嫁げますか?」と聞いてきた男に腹が立った、というようなエピソードを、4~5人の女性から聞きました。年齢も職業もバラバラな女性たちから、似たような男性のエピソードが飛び出してくる……これっておそらく、個人の問題というより構造的な問題なのではないかと思うんですよ。
 男性たちの言葉の背景を考えてみると、女性は仕事を辞めて家に入るものだとか、女性が働くことに価値を見出さないという、旧来的なジェンダー観を持っている男性がまだまだ多くて、特に地方ではその傾向が強い、ということがあるのではないか……。そういう話を聞くたびに、「女の人も同じように仕事を持ち、自分の生活があるんだから、結婚したら俺の地元に嫁げとか無茶苦茶だろ!」って思うわけですが、一方で自分自身にも、ちょっと身に覚えがあって……。
 というのも僕は、20代のときに病院勤務の女性と付き合っていたんですが、ある時、彼女が僕にエコー検査の練習台になってほしいと言って、病院に呼ばれたんですね。その時、彼女が白衣を着て働いているところを初めて見て、妙な気分になったんです。よくよく考えてみると、4年も5年も付き合っている恋人がこうして職場に通勤し、日々仕事をしているという当たり前の事実を、もしかしたら自分は想像すらしたことがなかったかもしれない……と。自分にとって彼女は“週末だけオレの前に現れるかわいい女”くらいの存在で、人格を持った一人の人間として扱っていなかったかもしれないぞと。
 初対面の女性に「あなたは東京を離れて僕の地元に嫁げますか?」とナチュラルに聞けてしまう人と、当時の自分の女性観は、根底のほうでつながっていたのかもしれないと感じ、ゾッとしました。

北村:私もそれ、たまにあります。一度ボーイフレンドを芝居に連れて行ったことがあって、そのボーイフレンドがアーティストの友達に「お客さん入ってないみたいですが、タダでやったほうがいいのでは?」みたいなことを言ったんですよ。よく考えるとアートに詳しくない人をアートの知識を求められる場所に連れて行くこと自体、私が悪かったんだなと思って。
 『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)という映画がありまして、レズビアンカップルの片方は教養があってアートタイプ、もう一人は庶民的な家庭の子なんですね。その二人がパーティでゲストを交えて話すと、庶民的な子が話についていけないという場面があります。それを見て、私も反省しました。

清田:アーティストのエマ(レア・セドゥ)は、アデル(アデル・エグザルホプロス)のことをちょっと下に見てるところがあるんですよね。自分もそういうことをやってしまったことがあるので、わかります……。

フェミニスト批評はキャラクターの描かれ方や批評史での評価に着目する

北村:フェミニズムは、性別や性的指向に起因する不平等をなくそうという考え方で、フェミニスト批評という技法はジェンダーとかセクシュアリティに注目しています。今までの批評というのは男性、特に白人男性やエリート層の異性愛者の男性が中心になっていて、それを見直してジェンダーやセクシャリティに着目して読もうという技法がフェミニスト批評なんですね。
 対象は作品なら何でもよくて、小説・お芝居・映画・最近はゲームや漫画、アニメを対象にすることもあります。現実の人間はあまり対象にしないので、そこが清田さんの本とは違うところですね。

清田:フェミニスト批評というのは、すでに一つの手法として確立されてるものなんですか?

北村:70年代とか80年代ぐらいから大学で研究されてまして、今の大学でも文学部などでは卒論を書くときに批評技術の一つとして教えられていると思います。
 フェミニスト批評では女性のキャラクターや女性の描かれ方に着目するのがオーソドックスなんですが、男の人がどう描かれているかということにもわりと着目しますね。
 物によりますけれど、ある作品が批評史でどう受け取られてきたかということもフェミニズム批評の対象になるんです。たとえばケイト・ショパンの『目覚め』(1899年)という小説があります。主人公の女性が自由を求めて逸脱的な行動を取るという話なんですけれども、出版当時はものすごく叩かれたんですね。でも最近は再評価されて、アメリカ文学の授業でよく読まれていています。それはなぜかというと、小説が出た頃の批評家は白人男性が多かったから、『目覚め』が何を書きたい小説なのかあまり理解されていなかったんです。

清田:なるほど。フェミニスト批評によって見方が変わり、再評価されるものもあるわけですね。今の話を聞きながら思い出したのですが、ちょっと前に、書評家で友人の倉本さおりさんと「週刊少年ジャンプ」(集英社)について話していたことがありまして。僕は子どもの頃から「少年ジャンプ」の作品がすごく苦手だったんです。当時はスラムダンクやドラゴンボールが全盛の時代で、クラス中が読んでいるといっても過言ではない状況だったのに、自分はなぜあんなにも「少年ジャンプ」が苦手だったのかを考えたとき、スラムダンクが苦手というより、スラムダンクが好きな男子が苦手だったんだなということに気づきました。自分を流川や三井やリョータに重ねて酔いしれたり、かわいくてサポーティブな女子が好みだったり……そういう男子たちの風潮が正直気持ち悪かった。
 倉本さんと話す中で、少年漫画に描かれる女子キャラクターってバリエーションが少ないよねという話になったんです。男をケアする「マネージャー」タイプ、男たちの憧れを集める「ミューズ」タイプ、男勝りで男たちと一緒に戦う「名誉男性」タイプの3パターンくらいしかないんじゃないかと……。もしかしたらあのとき倉本さんとしていたのはフェミニスト批評的な話だったのかなと、ふと思いました。

北村:そうだと思いますよ。教育の話になっちゃって恐縮なんですけれど、学生を教えていて一番困るのが時代背景や文化的背景を理解していないことなんですよね。昔の小説とか戯曲とかを読んでいるとその当時の人は明らかに分かったであろう習慣に関する描写などがよく分からないので、不思議な解釈をする学生が出てきたりするんですよ。
 もちろん、体系が分かっていれば今の解釈で理解していいと思います。例えばさっき紹介した“キモくて金のないおっさん”という概念は19世紀にはないんですけど、チェーホフを読む時にこれを使ってもいいんじゃないかと。当時の時代背景を理解して、さらに現代の視点でどういう風に位置づけるかということですね。
 英語の批評で、ある作品が「“age well”か、どうか」という見方があります。 “age well”というのは、“うまく歳を取っている”という意味です。今の価値観では見ると、ジョークが人をバカにしているみたいで面白くない作品は“age wellしてない”という言い方をして、今見ても面白い作品は“age wellしている”、つまりワインの熟成みたいな感じで、よく年を重ねた作品ということですね。そういう視点を持って物語を読めると面白いのかなという気がしています。

映画『サフラジェット』の邦題はなぜ『未来を花束にして』になったか?

清田:北村さんの本では「翻訳」や「演出」の問題にも触れられていました。これは個人的な想像ですが、原作ではジェンダーやセクシュアリティにまつわるニュアンスが繊細に描かれていたのに、翻訳者や演出家の影響でそのあたりがごっそり抜け落ちてしまうとか、そういうこともあるんですかね。例えば外国映画が日本に入ってくるときなどに、本来は政治や人権の問題を描いた骨太な作品なのに、日本ではまるで恋愛映画のように捻じ曲げられ宣伝されてしまうとか、そういうことってよくあるじゃないですか。こういった問題についてはどうお考えですか?

北村:捻じ曲げるのが全部悪いわけではないんですよね。シェイクスピアはいくらでも演出家の解釈で変えられるといわれていて、むしろ変えないと他の演出と同じになっちゃって面白くないと言われるから、みんないじるんですよ(笑)。ただ、洋画の輸入などについては、あんまり商売上良い影響もなさそうなのに、なぜか性差別的に変わっていることもよくありますね。その辺りは、マーケティング戦略としてはよくない気はします。

清田:「日本人には骨太なテーマはウケないから恋愛ものっぽく見せよう」とか、そういう意図があるんですかね。確かに恋愛をテーマにした本を作るときも、その本が持つ本質から多少ズレたとしても、「ひと目で恋愛本とわかるように表紙はやはりピンクがいいのでは?」という意見が必ず出ます。これも一種の偏見なのかも……。

北村:きちんとコンテンツをフォローしてくれてるお客さんには甘え気味だというのもあります。「うーん」と思うようなポスターとかタイトルとかでも熱狂的なファンなら来るから、宣伝では見た目だけで来てくれそうな客層を惹きつけたい、それでやたらとドギツくすることがある気がします。

清田:著書では、そのあたりの問題をイギリス映画『サフラジェット』(2015年)を例に考察されていました。

北村:それが、邦題だとなぜか『未来を花束にして』になっちゃったんです。サフラジェットというのはイギリスの女性参政運動を20世紀初めにやっていた女性活動家たちのことで、かなり戦闘的な人たちなんですよ。今でいうテロリストに近い人もいて、破壊工作とか自殺攻撃とか普通にする人がいたんですね。
 彼女たちがなぜ過激化したかと言えば、選挙権がないから。投票ができないと政治家を動かすことが出来ず、自分の声を届ける手段がないから、どんどん過激化するんですよ。
 でも、それが日本に輸入される時に『未来を花束にして』というタイトルにされてしまったら、そもそも何の映画か分からないですよね。しかも、マーケティング的に言っても『サフラジェット』を『未来を花束にして』にして、売れますかね? っていう……。消費者や観客の動向を見誤っているとは思います。

清田:僕は『サフラジェット』を見ておらず、初歩的な質問で恐縮なんですが……映画の中で何か花束的なモチーフが出てくるんですか?

北村:特にないんですよね(笑)。未来のために女性が戦うんですけれど、それ以外にあまり共通性がないんですよ。

清田:なるほど……だとするとなおさらよくわかりませんね。「将来のために過激な手段を取らざるを得なかった女性たち」という背景をこのタイトルから感じることはできないし、「花束」という綺麗な言葉を使ってしまうと、むしろ戦闘のニュアンスが削り落とされ、フワっとしたイメージにすらなってしまいます。題名をつけた側にも意図や狙いはあるんでしょうけど……うーん。これっておそらく、北村さんが著書の中で書かれていた“観客を育てる”という話ともつながってくる問題ですよね。

北村:ただ、これを問題視した人は多く、実際にツイッターで「#女性映画が日本に来るとこうなる」というハッシュタグとともに広がりを見せ、様々な議論を呼びました。昔は映画雑誌を読むコアなファンが怒るだけで、大多数の観客には批判の声は届かなかったんですけど、最近はTwitterですぐに炎上するようになったので、届きやすくなりました。

清田:CMや広告キャンペーンが「性差別的だ」と炎上し、即座に取り下げられるケースもここ数年増えていますよね。炎上というと「一部のフェミニストが騒いでいる」みたいにイメージする人も少なくないと思いますが、意見や批判が製作者にフィードバックされていくならば、建設的で素晴らしい現象とも言えなくないような気がします。

北村:昔からあるんですよ。シェイクスピアのお芝居で、言い訳みたいなエピローグとかプロローグがついているものがあるんですが、誰かから批判されて付け足したんだろうなって。商業演劇が始まった頃から、お客さんが怒るということはあったと思いますね。

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