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なぜ今こそ「鈍感力」が必要なのか 異論を潰し合う「つながりすぎ社会」の弊害

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「Getty Images」より

 「鈍感力」ということばがある。2014年に死去した作家、渡辺淳一が提唱したもので、2007年に出版された同名のエッセイは当時ベストセラーになり、このことばはその年の「2007ユーキャン新語・流行語大賞」のベストテンにも入賞した。Amazonの書籍紹介ページには「些細なことで揺るがない“鈍さ”こそ、生きていく上で最も大切で、源になる才能だと説き明かす」とある。これが「鈍感力」の定義ということになろうか。

 不勉強で、当時この方を「日経新聞の裏のエロい連載小説の人」としか知らなかったので、「なんでこの人がこんなエッセイを書いたのだろうか」と思ったことを記憶しているが、言っていること自体はよくわかる。

 些細なことをいちいち気にして悩んだり怒ったり悲しんだするのはつらいしめんどうだし、健康にも悪そうだ。世の中から自分の望まないことをなくすのは難しいが、自分の受け取り方を変えることはできるかもしれない。

 そもそも感じ取らなければ悩んだり怒ったり悲しんだりすることもなく、もっとおおらかに、もっと楽しく人生を過ごせそうな気がする。ベストセラーになったということは、同じように感じた人が多かったのだろう。

 出版されてだいぶたったので、もうこの本自体が話題に上ることはほとんどないようだが、ことばは生き残っていて、時折見かけることがある。今でも色褪せてはいないと思う。むしろ今こそ、このことばをもう一度思い出し、心に留めておくべきなのではないか、と思ったりする。

「敏感」になりすぎ

 というのも、今や私たちが暮らす社会は、あまりにいろいろなことに「敏感」になりすぎて、それがゆえに苦しむ人が少なくないようにみえるからだ。政府も企業も、そして個人も、社会のすみずみにまで目を配り、あらゆる人々の心に寄り添い、万事にわたって配慮が完璧に行き届いた状態が当然あるべき姿となっている。そこから少しでも離れれば、四方八方から批判の矢が飛んでくる。

 社会のいたるところに「弱者」がいて、彼らへの配慮をわずかでも欠いて権利を侵害したり、お気持ちを傷つけたりすれば、人でなしとの烙印を押され、ありとあらゆる罵倒と糾弾の標的となる。鈍感さはいまや、人倫に悖る罪悪とされているかのようだ。

 もちろんこのことは、よい側面を数多く持っている。これまで顧みられることのなかったマイノリティや事柄についての関心が高まり、放置されていた問題が解決を要するものとして取り上げられるようになった。それらのすべてが解決したわけではないが、少なからぬ分野において、多少なりとも改善がみられることは否定できない。それで救われた人も数多くいよう。したがって、「敏感」になりすぎたからといって、それ自体が悪いことだといっているわけではない。

 しかし、多くの事物や現象について言えることだが、それらが何か「よい」面を持っているとすれば、同時に「わるい」面も存在する。人の価値観や境遇は多様なので、「よい」とされるものと「わるい」とされるものが実はまったく同じものであるということも珍しくない。

 重い荷物を時速100キロで運べる自動車は人にぶつかると死亡事故を起こす。楽しい運動会で歓声を上げれば近所から「うるさい」とクレームがつけられる。まわりが自分の都合に対して「敏感」になってくれるのはありがたいが、自分がまわりのすべての人のすべての事情に対して「敏感」でなければ叩かれるという状況は、多くの人にとって必ずしも快適ではないだろう。

 こういう指摘をすると、「おまえは『よい』面を否定するのか!」と激昂する人がいる。自分が「よい」と考えるものに対する批判は一切許さないといわんばかりだが、「わるい」点を指摘したからといって「よい」点を否定しているとは限らない。繰り返すが人の考えはさまざまで、違う考え方をする人もいる。誰もがまちがっていると思う考えもなくはなかろうが、多くはもっとあいまいだ。世の中は「よい」「わるい」の二分法ですべてを語れるほど単純にはできていない。

「つながりすぎ」社会

 現代社会がこのように「敏感」になったのは、もちろん人々がいろいろなことに気を配るようになったという要素も大きい。しかし、それ以上に人々の間の「つながり」がかつてないほど密になったという要素も否定できない。

 インターネット、スマートフォン、ソーシャルメディアといった新たなメディア技術によって、私たちは、かつては考えられなかったレベルで、他者とつながることとなった。もちろんこれも、似た境遇の人たちが集まって助け合うネットワークが生まれたり、地方の小企業が海外向けの通販で売上げを伸ばしたりといった、「よい」影響を数多くもたらした。

 かつては広まることのなかったであろう個人の小さな声が、大きな影響力を持つようになり、ソーシャルメディアで多くの共感を呼んでさらに増幅される。大きな社会変化のきっかけになったという例も多い。ハリウッドの大物プロデューサー、ハービー・ワインスティーンに対する告発で注目を集めたいわゆる「#MeToo」も、これをツイッターのハッシュタグとして使った多くのユーザーが体験を共有するようになったことで、社会全体を巻き込む大きなうねりとなった。

 それとまったく同じ力が、別の方向にも働く。写真SNSに料理の写真を公開すれば「盛り方が汚い」と言われ、ツーショット写真を公開すれば「アピールうざい」と言われる。弱音を吐けば「甘えんな」と罵られ、強気の発言をすれば「上から目線」と叩かれる。「女性は大変」といえば「男だって大変だ」とクソリプが殺到し、「男だってつらい」といえば「女性に比べて恵まれてるんだから弱者面するな」と罵倒される。

 ソーシャルメディアが普及するまでは、社会のさまざまな場所で仲間内に向けて発せられたことばが、その外に伝わることはあまりなかった。しかし今はちがう。個人のちょっとしたつぶやきがSNSを通じて全国、時には全世界に拡散されうる。

 本人すら忘れていたずっと昔の黒歴史が掘り起こされて突如拡散され、糾弾のネタとなる。同じ考えの仲間の目に触れる機会が増えると同時に、異なる考えの相手の目に触れる機会も増える。新たなつながりが交流の増加と摩擦の増加の双方を生んでいる。これが今、私たちが生きる「つながりすぎ社会」だ。この意味で「イイネ」と炎上は同じものの表裏といえる。

 したがって、「わるい」ものをなくそうとすれば、「よい」ものをもスポイルするリスクを負う。SNSでコメントやリプライなどの機能を制限すれば、反論の機会が減る。議論の抑圧ととらえる人も出るだろう。人力あるいはAIなどを使って書き込みを削除するようなやり方で対処する場合も、「よい」ものだけを残し「わるい」ものだけを完全に排除することは難しい。そもそも「よい・わるい」の判断自体が人によって異なるからだ。

 ある論者がよからぬ主張をするという理由でその講演会に対する公共施設の貸出を拒否すべしとの批判が殺到すれば、施設側はついそれに応じてしまうことがある。すると次には機会を奪われた側が同じやり方で言論の機会を奪おうとするだろう。結局、お互いに潰し合うこととなる。

 つい「自分たちは正しくて相手はまちがっているのだから同じに扱うべきではない」と考えたくなるのも無理からぬが、たいていの場合、その「相手」も同じように考えている。程度は同じでなくても、双方になんらかの「理」があれば、どちらか一方の意見だけを容れることはバランスを欠くと判断される可能性がある。実にじれったい感じがするが、それが民主的なプロセスというものだ。強いリーダーシップで自分の利になるよう決めてほしいと言いたくなるが、そこには独裁や強権政治に落ちる穴がぽっかりとあいている。

怒りや嫉妬に対する「鈍感力」

 そんな今こそ、私たちが思い出すべきなのが「鈍感力」だ。

 そもそも私たちがネット上で寄せられる批判や罵倒をつらく思うのも、逆にたまたま見かけた気に入らない言説をつい罵倒したくなるのも、私たちが今のような広範かつ密接なつながりを持つようになったのがごく最近で、そうしたものに慣れていないからだ。「鈍感力」を身につけられれば、そうしたものを「今日は暑いな」「おやセミが鳴いている」といった程度のものとしてやりすごすことができるようになるかもしれない。

 よく考えてみれば、世の中のたいていのことは、自分には直接関係がない。ネット上で見ず知らずの人に中傷されても、気にしなければ、何の直接的な被害もない。逆に、ネット上で気に入らない人を見かけたとしても、ほとんどの場合、その人は自分と何の関係もない。そもそも、他人の中傷を気にしても気に入らない人を罵倒しても、それだけで世の中が変わるわけではないのだ。

 渡辺淳一がいう「鈍感力」は、「長い人生の途中、苦しいことや辛いこと、さらには失敗することなど」「気が落ち込むときにもそのまま崩れず、また立ち上がって前へ明るくすすんでいく」「したたかな力」を指す。つまり、自分が受ける苦しさや辛さに対する「鈍感力」ということになる。

 しかし、ソーシャルメディアで個人の発信力が増大した現代の私たちは、自分が誰かに苦しさや辛さを与える側になるかもしれないことを意識しておかなければならない。すなわち、自分に関係のない他人への怒りや嫉妬をやりすごす「鈍感力」をも求められているのだ。

 『鈍感力』が出版された2007年といえば、iPhoneが発売され、twitterがサービスを開始した時期にあたる。それ以後、私たちの「つながり」が飛躍的に進展することとなるこの時期に「鈍感力」という概念を打ち出したのはまさしく慧眼だと思うが、それ以後の12年ほどで私たちの社会はさらに変化してしまったのかもしれない。

 とはいえ、個人レベルで「鈍感力」を身につけよといわれても、そう簡単ではなかろう。意思を強く持てといわれてもそう簡単にはできないのと同じだ。個人差があろうから、訓練すれば誰にでもというわけにもいくまい。渡辺淳一の『鈍感力』に対しても、「結局どうすればいいのだ」といった批判が寄せられている。

 個人的には座禅やマインドフルネスなどもある程度有効なのではないかとも思うが、これまた向き不向きもあろう。できる人はやってみるとよいと思う。うまくできない人には、法や技術による保護に加え、心へのサポートが必要なのではないかと思うが、長くなりそうなので別稿に譲る。

 もちろん、自分はどんなに傷つけられても平気、バトル上等という強い人には「鈍感力」など不要だろう。しかしそういう人と、「鈍感力」を支持しつつも自分ではなかなかそうはできず苦しんでいる人たちは、分けたほうがよいと思う。ポイントは、どの程度「つながる」かを自分で決められるようにすることなのだが、これまた長くなるので別稿に譲る。

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