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Aマッソ炎上の人種差別ネタを、「本人が気にしてないならOK」と言わないで

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ワタナベエンターテインメント公式HPより

 人気若手お笑いコンビのAマッソが、2019年9月22日に開催された無料イベント「思い出野郎Aチームpresents ウルトラ“フリー”ソウルピクニック」出演時に「大坂なおみに必要なものは?」「漂白剤。あの人日焼けしすぎやろ!」というやりとりをネタの中で行い、批判が殺到している。

 大坂なおみがもって生まれた肌の色に必要なものは「漂白剤」であり、「日焼けしすぎ」と形容する発言は、「白い肌」と「黒い肌」を序列化し、笑い飛ばすという人種差別的なものだ。

 筆者が上記のやりとりを知ったのは9月24日の早朝、ツイッター上だった。当初は「さすがにそんなあからさまな差別発言が公衆の面前でされることはないのでは……」と願いにも似た気持ちで事態を見守っていたのだが、24日の夕方には彼女たちが所属するワタナベエンターテインメントのwebサイトに会社および両名の謝罪文が掲載され、実際に上記のネタ――フリートークでの即興における「口が滑った」というものではなく練習を積んだはずのネタがあったことが明らかとなった。

 2017年の年末の『ガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ)で浜田雅功がエディ・マーフィに扮するブラック・フェイスを披露し、日本国内のみならず、グローバルに物議を醸したあとの社会において、またしても「黒い肌」が笑いのネタとして消費される事態となったわけだ。

 それぞれ文脈はちがうものの、もって生まれた誰かの「肌の色」を笑いのオチとして「使ってしまう」という行為は同じだ。そのネタを披露するときに、目の前の観客に、そうした「肌の色」をもつ人はいなかったのだろうか。「黒い肌」をもつ「海外の人」や「観光客」のことだけを指しているのではない。「黒い肌」をもつ在日外国人、「ハーフ」、外国にも日本にもルーツをもつ大勢の人々も含めて、彼らのこと1ミリも想像しなかったのだろうか。あるいは、そうした「肌の色」をもつ人々の「身の回りの人」が自分たちの漫才を見に来ている可能性については、やはり考えなかったのだろうか。

ダイバーシティ・マネジメントと「役に立たない人」

 ワタナベエンターテイメントの謝罪文には、再発防止に向けた取り組みを行うと記載されていた。

「弊社の指導と共に、弊社顧問弁護士に加えダイバーシティマネジメントを専門とする方々によるサポート、アンチレイシズムを専門とする弁護士からのアドバイスを受け、両名のダイバーシティの意識をより高め、徹底するよう、本日講義を行いました。」(https://www.watanabepro.co.jp/information/pressrelease_190924.html

 アンチレイシズム(反人種主義)はともかくとして、ダイバーシティ・マネジメントという言葉には要注意である。ダイバーシティ・マネジメントとは、多様性(ダイバーシティ)をもつ人々を積極的に雇用することで創発性を高め、企業の経済的利得を拡大する戦略をも意味するからだ。

 要するに、経済的利得の拡大が可能である限りにおいて、ダイバーシティを尊重しようということだ。一見すると良い言葉のように思われるかもしれないが、それは「役に立たないなら切り捨ててしまえ」という管理(マネジメント)と表裏一体である可能性がある。

 さらに言えば、大坂なおみをもてはやした人々が、Aマッソのネタで笑っていた可能性すらある。

 もてはやすにせよ、笑いのネタとして嘲笑するにせよ、そしてダイバーシティ・マネジメントの「講義」を受けたあとであるにせよ、その「手つき」や振る舞いは、実は同質のものではないか、と吟味する必要がある。なぜなら、「大坂なおみや「ハーフ」、海外ルーツをもつ人々を区別し、評価し、枠づけ、他者化し、時に引き入れようとする」、他者の多様性を「ちぎりとる」ような身のこなしであるかもしれないからだ。

ちぎりとられたダイバーシティ――大坂なおみ選手が可視化した人々

 2018年9月13日のアディダスのメルマガは「大坂なおみ選手着用アイテムのご紹介」と題されていました。1度リンクに触れれば、「大坂なおみ着用モデル」の…

ウェジー 2018.09.25

「本人が気にしていないなら」差別表現はOKか?

 ところで、こうした差別発言を批判するときに、よく見かけるのが「本人が気にしてないならいいじゃない」という意見である。こうした反駁は一理あるようで、実はそうでもない。なぜなら、名指しされた「本人」以外にも、「黒い肌」といった属性をもつ人々も、その身の回りの人々も大勢いるからだ。

 こうした差別発言を野放しにしてしまうと、「この属性はネタとして使って笑い飛ばしてよいものなのだ」と直接的・間接的に認めてしまうことになる。そして、「気にしていない(のかもしれない)本人」を飛び越えて、共通する属性をもつ「気にせざるをえない誰か」「傷つかざるをえない誰か」へと、その嘲笑はたどりつき、心身を深く傷つける可能性をもつ。そうしたことを防ぐために、差別発言は逐一、きちんと批判する必要があるのだ。

 ここで思い返すべきは、日清食品グループが、大坂なおみ氏と『テニスの王子様』とのコラボCM内で、肌の色を白くしたことに対し起きた――大坂なおみ本人自身の批判を含む――批判の数々だ。こうした批判の数々それ自体が、「黒い肌」と「白い肌」の序列しようとする言動を未然に防ぐ手がかりとなりうる。今回のAマッソのネタへの批判も、こうした批判の数々との連続性のなかでとらえるべきだろう。

 「本人が気にしてないならいいじゃない」と言っていられるのは、実は「自分が気にせずにいられる特権的なポジションにいるから」にほかならない。だから、「本人が気にしてないならいいじゃない」という言葉が飛んできたら、「あなたはそれでいいのでしょうが、ご自分のこと以外の誰かのことも時には考えてはいかがでしょうか?」とお返事しておいたほうがよいと思う。

 もっとも、「本人が気にしてないのなら……」と発言してしまうような人も、いつ何時自分や自分の身の回りの人が「肌の色」をはじめとする、もって生まれた属性によって差別されてしまうかわからない。その可能性もゼロではない。残念ながらこの社会には、意識的・無意識的に繰り出される差別の数々が飛び交っているからだ。

 そのことに今まで気づいてこなかった(差別を受けなかった)人が、これからもそうだとは限らないし、「自分は差別されても平気だ」と強がっている人が、いつか「もう耐え難い……」と――自分と自分以外の誰かのために――苦悩する日々が訪れる可能性だってある。

 だからこそ、わたしたちにできることは、あらかじめ差別発言を野放しにしないことである。そして、きちんと批判することだ。自分と、自分の身の回りの人々と、まだ出会ったことのない人々のために。

 綺麗事だと思われるかもしれないが、残念ながらこれは綺麗事ではない。人々が我が身を守るための、そして今以上に差別的な社会が訪れるのを防ぐための、極めて実践的な処世術である。

 なお、批判とは、非難ではない。このままの社会ではなく、別様のもっとよりベターな社会をつくるための能動的な行為こそ、批判である。批判がなくなってしまった社会は、よりベターになる機会を失ってしまった哀しい社会にほかならない。

 ところで、「ことを荒立てなければ、やがて関心は薄れ、差別はなくなる」と思われる方もおられるかもしれない。だが、それでなくなった差別が歴史上、本当に存在するのなら、ぜひ教えてほしい。なにより、Aマッソの村上氏がすでにこう言っている。

「本当に無知でした。本当に申し訳ございません。」

 Aマッソの謝罪文が示唆するのは、関心が薄れること、そして、無知であることは差別をしないことを意味しない、ということだ。むしろ、差別は誰しもがする可能性がある。この文章を書いている僕も、この文章を最後まで読んでいるあなたも、その例外ではない。「無知」であるからこそ、そして「知っていたにもかかわらず」起こしてしまう差別があるのだから。

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