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重度障害議員を「迷惑」視する社会を変える――特別扱いではない「合理的配慮」とは?

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写真:AFP/アフロ

 重度障害のあるれいわ新選組所属の舩後靖彦氏、木村英子氏の参議院当選から2カ月が過ぎた。両議員の当選に対し、少数者の声を国政に届けるものとして歓迎する声があった一方、逆風も吹いた。議場の改修工事、議会のルール変更、介護費用の問題等が明らかになるにつれ、「コストがかかりすぎる」「議員本人が自己負担すべきだ」「かれらが議員になることは議事進行を妨げる『迷惑行為』だ」といった声がSNSを中心に噴き上がったのである。

 その風圧の強さは「合理的配慮」という理念がいかに社会に浸透していないかを如実に表している。先の選挙後、報道でも頻繁に使用されるようになった「合理的配慮」という語は、2016年に施行された「障害者差別解消法」のキーワードのひとつだ。しかし世間では、施行から3年半たったいまも「障害のある人のために何かをしなければいけないらしい」程度の理解に留まっているように感じる。

 「合理的配慮」の意味や法律が必要とされた背景を知らなければ、これからも「障害があるからといって特別扱いするべきではない」「コストがかかりすぎる」といった誤解に基づく発言が繰り返されるだろう。そんな社会状況は、広く障害のある市民の生きづらさにもつながっている。そこで本稿では「社会的障壁をとりのぞく『合理的配慮』」がどのようなものなのか、その上で、両議員へのバッシングがなぜ間違いなのかを解説していく。

1.「社会的障壁」をとりのぞくのが「合理的配慮」

 最初に、合理的配慮を理解するうえで欠かせない「社会的障壁(社会環境の中にあるバリア)」というキーワードを解説する。これは障害者基本法(2011年改正)および障害者差別解消法(2013年成立、2016年施行)の中で、「障害のある者にとって、日常生活や社会生活を送る上で障壁となるような、社会における事物、制度、慣行、観念、その他一切のもの」と定義されているものだ。健常者を基準としている社会環境にさまざまなバリアがあることで、障害のある人はほかの人と同じように参加できなかったり、排除されたりしてきた。だからこのバリアを少しずつでもとりのぞいて行こうというのが障害者差別解消法の目的である。

 重度障害議員の当選後に起こったことの中から、例を挙げる。国会では改修工事が行われ、大型の車いすを使う両議員がそのまま席に入れるよう、固定式の椅子と背もたれがとりのぞかれ、中央玄関には仮設スロープがつけられた。多目的トイレの増設も予定されている。これらは物理的バリア(事物)をとりのぞくことを意味する。次に、議場でのルール変更が認められた。次正副議長の投票では、重度障害議員の介助者が投票用紙に代筆し、参院事務局の職員が投票した。これは「自筆」で投票するという従来のルール(慣行)がバリアになっているから、それを変更したのである。今後、文字盤を使用する舩後議員が答弁に立つときの発言時間の配分等について、調整が行われていくだろう。なお、重度障害者に議員の仕事は無理だろうといった固定観念(偏見)も社会的障壁の一種である[1]。

 そして(あえてざっくりとした言い方をするが)これらの「社会的障壁」をとりのぞくことを「合理的配慮」(平等のための環境調整)と呼ぶのである。改修工事を行うことも、代筆を認めることも、それをしなければ平等に議員として活動できないのだから、理にかなった環境の調整である。工事のような一度やってしまえば効果が続くものも、文字盤でのコミュニケーションのような「その場、その場」で行う調整も、どちらも合理的配慮である。

 2議員の当選後に起こった出来事は、国会という場の「社会的障壁」をくっきりと可視化するものだった。これら障壁は元々とりのぞかれるべきものだったから、(二人の当選がきっかけだったにせよ)「2人のために特別に配慮してあげた」のではない。

2.障害者差別解消法と「合理的配慮」 

 ここで障害者差別解消法と「合理的配慮」について、もう少し説明しておこう。

 筆者の経験上、日本社会では「差別を禁止する」と聞くと、なぜか心の中に踏み込まれるように感じて抵抗する人が結構いる。しかし障害者差別解消法は、心の中ではなく「行動」を変えるように促す法律だ。同じ権利が守られるようにするために(ひらたく言うと、障害のない人が当たり前にしていることを、障害のある人もできるように)、社会的障壁をなくさなければならないという考えが基本にある。どういう場面でのどういう行動をとれば(あるいは、何もしなければ)「差別」になるのかを、この法律は定めている。

◆二種類の差別

 差別解消法では、二種類の「差別」を禁止している。一つめは「不当な差別的取り扱い」(ひらたくいえば「ザ・差別」)、二つめは「合理的配慮の不提供」(バリアがあるために困っており、バリアをとりのぞいてほしいと希望したのに無視されるなどして、その結果、権利が守られないこと)である[2]。

 一昨年、舩後議員と同じ難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)である岡部宏生氏が国会の参考人として招聘されていたのに、文字盤を使用しての発言に時間がかかることを理由に、本人の出席を拒否されるという事件があった[3]。これはまさしく「不当な差別的取り扱い」であり、大問題となった。一つめの「ザ・差別」のほうである。

 もし出席は拒否しなかったとしても、本人に必要な合理的配慮を行うこと(=文字盤を使った発言)を認めなければ、実質的に目的を全く果たせないことになる(どれほどの屈辱だろうか)。二つめのほうもまちがいなく「差別」なのだ。

 この二種類の差別について、入学試験にたとえてみよう。視覚障害があり点字を使用する受験生AさんがB大学の受験を希望したとする。B大学側がAさんの出願自体を認めないのが、一つめの差別(不当な差別的取り扱い)である。もしAさんの出願・受験は認めるものの、「うちは特別扱いしません」といって点字の試験問題等を用意しなければ、B大学は二つめの差別(合理的配慮の不提供)をしたことになる。どちらも門前払いであり、ひどい差別であることにかわりはない。

◆マイナス(不平等)をゼロ(平等)に近づける

 この「障害者差別解消法」のことを理解するために大切なことは何だろうか。筆者の考えでは、社会的障壁のために、障害のない人があたりまえにできていることを「できない/制限される」人がいることは不当だ、変えなければいけないと思えることが第一歩だ。健常者中心に社会がつくられてきたせいでバリアがあることに、健常者はずっと鈍感でいられた(筆者ももちろんそういう一人だ)。障害のある人からすると、自分の責任ではないもの(=社会的障壁)のせいで大迷惑をこうむっている。こんな不平等はなくすべきだし、今は法律や「合理的配慮」がそれを助けてくれる。

 「気の毒だから、いい人だから、がんばっている人だから、(恩恵的に何かを)してあげる」のではない。同じ人間、同じ市民でありながら、行きたい学校を受験できない、話を聞いてもらえない、食べたいお店で食事できない、路線バスに乗ろうとしたら拒否される、聞きたい講演会があっても手話通訳などの情報保障をしてもらえない、賃貸住宅を借りようとしても断られ続ける――そんな経験をしている人は、思っている以上に多い。そしてそんな経験を重ねることで人生の選択肢まで大きく制限されてしまう。

 障害者自身もかつては、「こんな身体だから仕方がない」と思わされ、自由な行動をあきらめさせられてきた。だが、「こんな扱いはおかしい、社会環境を変えればいいのだ」と気づいた人たちによって障害者運動が起こされた。その道のりが、今ある障害者権利条約や障害者差別解消法のベースにある「障害の社会モデル」[4]につながっている。

 つまり障害者に「特別なことをしてあげる」(プラスの行為)ではなく、歴史的・構造的につくられた大きな大きなマイナスをゼロ地点(平等)に引き上げようとするのが、障害者差別解消法であり、合理的配慮という手段なのである。

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